第72話 騎士団長の剥奪
決議は、呆気ないほど速かった。
開廷から採決まで、わずか二刻。弁論に立ったヴァレンシュタイン派の議員は三名だけで、そのうち一名は途中で言葉を失い席に戻った。リーナの鑑譜眼が、弁護側の核紋から聴き取ったのは弁論の旋律ではなく、敗北を悟った者特有の不協和音だった。
「帝国議会は、ヴァレンシュタイン公爵家嫡男ディートリヒ・ヴァレンシュタインの帝国騎士団長職位を剥奪する。賛成二百十七、反対八十三。本決議は即日発効とする」
議長クロイツフェルト伯爵の声が、議場に落ちた。槌が二度、石の台座を打つ。重い音が天井に跳ね返り、三百人の頭上に降り注いだ。
反対票八十三。
ヴァレンシュタイン派が総力を挙げて集めた数字が、それだった。五大公爵家の筆頭として帝国を百年支配した家の政治力は、もはやその程度にまで衰えていた。
ディートリヒは被告席に座ったまま動かなかった。
リーナは傍聴席から、その横顔を見ていた。鑑譜眼は使っていない。使わなくても分かる。ディートリヒの拳が膝の上で白く握り締められているのが、この距離からでも見えた。
周囲の議員たちがざわめき始めた。歴史的な瞬間を目撃したという高揚と、五大公爵家の筆頭が崩れたことへの不安が、議場の空気を揺らしている。
「閉廷」
槌が三度目に鳴った。
議員たちが席を立つ。議場に低いざわめきが広がり、帝国の百年が一つ終わったことを、壁に掛かった紋章だけが無表情に見つめていた。
ディートリヒが立ち上がった。
騎士団の正装から階級章を外す手続きは、議場の外で行われる。だが今この瞬間から、彼はもう騎士団長ではない。金の鷲が刻まれた階級章が胸元で光っているが、それはもう飾りにすぎなかった。
議場を去る通路は、傍聴席の前を通る。
リーナは動かなかった。ルシアンが隣で腕を組んでいる。
ディートリヒの足音が近づいてくる。一歩、また一歩。靴が石畳を叩くたびに、リーナの耳に微かな旋律が届いた。鑑譜眼を使わなくても聴こえるほど、彼の核紋は不安定になっていた。
目が合った。
ディートリヒの碧眼が、リーナの紫の瞳を捉えた。
一瞬だった。だがその一瞬に、リーナはディートリヒの表情が変わるのを見た。怒りでも、憎しみでもない。もっと深い場所から湧き上がってきた何かが、金髪の青年の整った顔を歪ませた。
唇が動いた。声にはならなかった。
リーナには、読めた。
あの瞳を。
ディートリヒは視線を逸らし、通路を歩き去った。足取りは乱れていなかった。最後の矜持で背筋を伸ばし、議場を出ていく。肩が僅かに震えていることに気づいたのは、リーナだけだったかもしれない。
「何か言いましたの、あの方」
ルシアンが低い声で訊いた。
「いいえ。何も」
それ以上は口にしなかった。ディートリヒが初めて気づいたのだ。あの瞳を失ったことが、外交の失敗よりも、軍事予算の流用よりも、騎士団長の剥奪よりも致命的だったということに。
だが、もう遅い。
* * *
ヴァレンシュタイン公爵邸。
ディートリヒが執務室の扉を開けると、フローラが窓際に立っていた。
夕陽が差し込む部屋の中で、フローラの横顔は整っていた。エーデルシュタイン家の長女にふさわしい気品と華やかさが、逆光のシルエットに凝縮されている。
だが、振り向いた時の表情が違った。
「お帰りなさいませ、ディートリヒ様」
声に温度がなかった。口角は上がっているが、瞳が笑っていない。社交界で何百回と見せてきた営業用の微笑みですらなかった。もっと冷えた、事務的なものだった。
「フローラ」
「議会の結果は伺いました。騎士団長の職位が剥奪されたそうですわね」
驚きも、同情も、怒りもない。事実を確認しているだけの、帳簿を読み上げるような響き。
ディートリヒは一瞬、別の女の声を思い出した。
かつての婚約者も「ですわ」を使っていた。だがあの女の「ですわ」には皮肉も、温かさも、辛辣さも、全てが含まれていた。目の前の婚約者の「ですわ」は、空洞だった。表面を撫でても何も返ってこない、虚ろな器の音。
「今後のことについて、お話がありますの」
フローラが椅子に座り、背筋を伸ばした。その仕草は完璧な貴族令嬢のそれだったが、瞳はもはや婚約者を見る目ではなかった。
まるで、不良債権の処理に取りかかる商人の——
「明日、改めてお話しいたしますわ」
フローラはそれだけ言って、部屋を出て行った。ドレスの裾が床を擦る音が遠ざかり、扉が静かに閉まった。
ディートリヒは一人、窓の前に立った。
帝都の空が赤い。封印劣化の影響だと、誰かが言っていた。赤い光が窓硝子を染め、ディートリヒの白い手袋を血のように染めた。
拳を壁に叩きつけた。石壁に鈍い音が響く。関節から痛みが走り、指の間から血が滲んだ。だがそれすらも、今のディートリヒには些細なことだった。
* * *
同日、深夜。シュヴァルツベルク公爵邸。
リーナの居室に、茶の香りが漂っていた。ルシアンが向かいの椅子に座り、茶碗を手にしている。周囲に人の気配がないことは確認済みだった。
「フローラの動きが気になりますわ」
リーナが地図の上に視線を落としたまま言った。机の上には、カスカーラから持ち帰った資料と、議会の調書の写しが広げられている。
「シュヴァルツベルクの情報網にも引っかかっている。エーデルシュタイン家が財務系の子爵家と接触を始めた」
「婚姻の話ですのね」
「おそらくな。ディートリヒを切って、新しい駒を探しているんだろう」
リーナは茶碗を手に取った。湯気が銀髪にかかる。
「嘘で結ばれた関係は、嘘で終わる。あの二人にとっては、当然の結末ですわ」
「……お前は違うと言いたげだな」
「わたくしが言わなくても、ルシアン様の旋律が語っていますわ」
ルシアンが茶碗を置いた。
「俺の旋律か」
「ええ。鑑譜眼を使わなくても分かるほどに」
ルシアンの碧眼がまっすぐにリーナを見た。
「お前の鑑譜眼に、俺の旋律は今も嘘がないか」
リーナの瞳が淡く光った。鑑譜眼が反射的に発動する。ルシアンの核紋から流れる旋律は、あの日と同じ澄んだ和音だった。濁りのない、深い碧のような低音。
「変わりませんの」
耳が少しだけ赤くなっていた。リーナはそれを隠すように茶碗を口元に運んだ。
ルシアンはそれ以上何も言わず、茶碗を取り直した。だが口元が僅かに緩んでいるのを、リーナは見逃さなかった。
「……それより、フローラの核紋から聴こえた旋律が引っかかっていますの。あれは計算と、見切りの音でしたわ。婚約者の窮地に駆けつけたのではなく、損切りの判断を下しに来た女の旋律」
「あの女がヴァレンシュタインを見捨てるのは時間の問題だろうな」
「ええ。そしてそれは、わたくしたちにとって追い風ですわ」
リーナは地図に視線を戻した。封印の三点が、赤い点で記されている。帝都。辺境。迷宮。三つの点を結ぶ三角形の中心に、聖域山脈がある。
「派閥の内部崩壊は、外から崩すより速い。フローラが離反すれば、エーデルシュタイン家とヴァレンシュタイン家の同盟に亀裂が入りますわ。偽聖女クラリッサの後ろ盾も揺らぐ」
「一石で二鳥か」
「三鳥ですわ。フローラの離反は、議会の中間派にも影響を与えますもの。『味方の婚約者にすら見捨てられた家』という印象は、数字以上に効きますの」
リーナは茶碗を置いた。
窓の外で、帝都の空がまだ赤い。
フローラの核紋から、冷たい旋律が流れていた。それは計算と、見切りの音だった。




