第71話 ディートリヒの転落
帝都イグナシオンの空が、微かに赤みを帯びていた。
カスカーラから戻って三日。リーナは傍聴席の最前列に座り、帝国議会の大議場を見渡していた。天井の高い円形の空間に、三百を超える議席がひしめいている。議員たちのざわめきが石壁に反響し、低い波のように場内を満たしていた。
隣にルシアン。その奥にシュヴァルツベルク家の随行者が二名。傍聴席は立ち見が出るほどの混雑で、通路にまで人が溢れている。
「静粛に」
議長クロイツフェルト伯爵が槌を打った。ざわめきが収まる。
「調査委員会の最終報告を読み上げる」
議長は手元の羊皮紙に目を落とした。
「軍事予算の流用額、七百万金貨。帝国騎士団への不正支出、三百万金貨。合計一千万金貨に及ぶ公金の横領を、本委員会は正式に認定する」
議場がざわめいた。一千万金貨。馬一万頭に相当する額が、百年にわたって一つの家に流れ込んでいた。
リーナは壇上に目を向けた。
ディートリヒ・ヴァレンシュタインが被告席に立っている。金髪が議場の灯りを受けて輝き、帝国騎士団の正装が隙なく整えられていた。背筋は真っ直ぐ。顎は上がっている。外見だけなら、紛れもなく帝国の若き英雄。
だが、リーナの鑑譜眼は別のものを聴いていた。
瞳が紫から淡い金色に変わる。ディートリヒの核紋から漏れ出す旋律は、半年前とは別物だった。至るところで軋み、全体が崩壊の序曲を奏でていた。
「ヴァレンシュタイン公爵家嫡男、ディートリヒ・ヴァレンシュタイン。弁明の機会を与える」
議長が促した。
ディートリヒが一歩前に出た。三百の視線が彼に集中する。靴音が石畳に響いた。
「本件の予算執行は、全てヴァレンシュタイン公爵家の正規の手続きに基づいて——」
そこまでは流暢だった。
だが、リーナの耳に三つの不協和音が重なった。「正規」に一つ。「手続き」に一つ。「基づいて」に一つ。弁明の最初の一文だけで、三つ。
「騎士団の運営費として——その、父上の判断により——」
言葉が詰まった。
議場が静まり返った。蝋燭の炎が揺れる音さえ聞こえそうな沈黙。ディートリヒの喉仏が上下した。額に薄く汗が滲んでいる。
リーナは瞳を金色に光らせたまま、何も言わずにその姿を見つめていた。
「それは、その……私個人の判断ではなく、あくまで家としての——」
声が震えている。かつてリーナに「お前の目が気味悪い」と告げた男の声が、今は議場の沈黙に押し潰されそうだった。
「つまり、嫡男である貴殿は、予算流用の事実を知りながら黙認していたと?」
議長の声は淡々としていた。だがその淡々さが、かえってディートリヒを追い詰めた。
ディートリヒは答えられなかった。
拳が白くなるまで握り締められている。唇が何度か動いたが、音にならない。壇上に立つ騎士団長の姿は、武勇で知られた男のそれではなかった。自分の嘘を自分で支えきれずに崩れていく、一人の若者の姿だった。
議場の一角から、嘲りとも同情ともつかないため息が漏れた。
リーナは鑑譜眼を切った。もう聴く必要はなかった。
* * *
休廷の鐘が鳴り、議員たちが席を立ち始めた。
「あの男、嘘をつくことさえ下手になりましたわね」
リーナが小さく呟いた。声には抑揚がない。
ルシアンが腕を組んだまま壇上を見ていた。ディートリヒはまだ立ち尽くしている。側近が肩に手を置いて促しているが、足が動かないらしい。
「当然だろう。嘘を見抜いてくれる人間がいなくなれば、嘘の精度は下がる」
「見抜いてくれる、ではありませんわ。見抜かれるから嘘の質を保てていただけですわ」
ルシアンが片眉を上げた。
「辛辣だな」
「事実ですわ」
リーナは傍聴席から立ち上がった。銀髪が揺れ、深い紫のドレスの裾が床を掃く。
壇上から降りようとするディートリヒと、一瞬だけ目が合った。
ディートリヒの碧眼が大きく見開かれた。リーナの紫の瞳には何の色も浮かんでいない。怒りも、侮蔑も、憐れみすらも。ただ、静かに見ている。
かつての婚約者に向ける視線としては、あまりにも透明だった。
その視線から先に逸らしたのは、ディートリヒの方だった。顎を引き、傍聴席から目を離す。側近に促されるまま、通路へと歩き出す。靴音が小さくなっていく。
リーナはその背中を見送った。
ルシアンが小さく息を吐いた。
「終わったな」
「いいえ。まだですわ。職位の剥奪は明日の決議次第」
「そうじゃない。あの男の中で、何かが終わったと言っている」
リーナは答えなかった。
* * *
回廊に出ると、空気が少しだけ涼しかった。窓の向こうに、赤みを帯びた帝都の空が広がっている。議場の熱気から解放され、石壁の冷たさが肌に心地よかった。
「封印劣化の件は、明日の議題に上がりますわね」
「ああ。調査委員会の最終報告と併せてだ」
ルシアンが周囲を確認すると、口調が変わった。
「……大丈夫か」
「何がですの」
「あの男の旋律。お前には堪えるだろう」
リーナの足が一瞬止まった。
ルシアンは的確に見ている。リーナ自身が意識的に無視していたものを。
三年間隣にいた人間の旋律が壊れていく音を聴くのは、どれほど辛辣な言葉を吐いても、軽いものではない。
「堪えませんわ」
リーナは歩き出した。
「嘘だな」
「……少しだけ、不協和音が重かっただけですわ」
ルシアンは何も言わなかった。だが、歩く距離が半歩だけ近くなった。リーナの隣を歩く。回廊の窓から差し込む光が、二人の影を長く石畳に伸ばしていた。
リーナは星脈鉄のイヤーカフに触れた。指先に伝わる微かな振動。帝都の地下で、封印がまた一つ軋んでいる。
「明日の議題が終わったら、封印の全体構造を整理しますわ。カスカーラで得た情報と、辺境の情報と、帝都の記録。全てを繋げれば——」
「ああ。だが今日は休め」
「あら、心配してくださいますの」
「仕事の効率の話だ」
リーナの耳が僅かに赤くなった。ルシアンの核紋から、その言葉に嘘の旋律が混じっていることくらい、鑑譜眼を使わなくても分かっていた。
回廊の先に、議会棟の出口が見えた。ヴァレンシュタイン家の馬車は既に出発した後だった。
「ルシアン様」
「ん」
「あの男の旋律が壊れていくのを聴きながら、思ったことがありますの」
「何だ」
「婚約を破棄された夜、わたくしも同じだったのかもしれない、と。足元が崩れて、声が出なくて。あの時のわたくしと、今日のあの方は——」
「違う」
ルシアンが短く遮った。
「お前はそこから立ち上がった。あの男は自分で崩した」
リーナは小さく頷いた。
空はまだ、微かに赤い。
嘘を見抜いてくれる人を、自分から捨てたのだから。




