第70話 帰還と暗雲
カスカーラを発って三日目の朝、街道脇の宿場町で馬を休ませた。
小さな宿の中庭に、秋の陽射しが差し込んでいた。石造りの水飲み場で馬が水を啜る音。井戸の滑車が軋み、桶が揺れている。リーナは井戸の縁に腰を下ろし、道中の記録を手帳に書き留めていた。カスカーラで得た情報。カイトの核紋の詳細。三点封印の構造。帝都に戻ったら、議会の調査委員会に報告しなければならない。
ルシアンが二杯の茶を持って戻ってきた。一杯をリーナの横に置く。
「飲め。朝から何も口にしていないだろう」
「ありがとうございますわ」
リーナは茶を受け取った。温かい陶器が指先を温める。薄い薬草の風味が湯気に混じっている。宿場町の安い茶だが、帝都の高級茶よりも今は美味しく感じた。
カスカーラから帝都への帰路は、行きよりも静かだった。ヴァレンシュタインの密使の気配は薄れている。おそらく帝都での調査委員会の動きに、本国からの指示が忙しくなっているのだろう。
ルシアンが隣に座った。碧眼が遠くの丘陵を眺めている。秋草が風に揺れ、銀色の穂が光っていた。周囲に人の気配がないことを確認したのか、口調が変わった。
「カスカーラの少年。信用できるのか」
「鑑譜眼ですわ。嘘は聴こえませんでした」
「能力が本物だとしても、信用は別だ。ダンジョンの深層に一人で挑む冒険者が、帝国のために動く義理はない」
「義理ではありませんわ」
リーナは茶を一口飲んだ。
「あの方は、ヴァイスリッター家の弾圧に関わる過去をお持ちですの。ヴァレンシュタイン家に対して、あの方なりの理由がある。帝国のためではなく、自分自身のために動く人ですわ」
「それで信用するのか」
「自分の理由で動く人は、裏切りにくいですわ。他人の命令で動く人よりずっと」
ルシアンは答えなかった。茶を口に運び、飲み込む。陶器の杯が唇に当たる微かな音。それからしばらく沈黙が続いた。秋の風が中庭の木の葉を揺らし、乾いた音が鳴った。馬が鼻を鳴らし、尾で虻を払っている。
「……お前の耳を信じる」
ルシアンが、ぽつりと言った。
リーナは横を向いた。碧眼がまっすぐ前を見つめている。横顔に秋の陽が当たり、黒髪が微かに光っていた。不器用な男の、不器用な信頼の示し方。あの人は最初から変わらない。利用するために近づいた。けれど今は、こうして隣に座っている。
「お前の鑑譜眼は嘘を暴く。だが俺は、お前自身の判断を信じている。鑑譜眼がなくても」
ルシアンの手が伸びた。
リーナの手に重なった。
大きな手だった。剣を握り、闇属性の力を操る手。指には古い傷の痕がいくつもある。けれど今は、ただ温かい。リーナの細い指を包むように、静かに握っている。
リーナは息を呑んだ。鑑譜眼を発動したわけではない。それでも、触れた手から伝わる旋律が聴こえる気がした。澄んだ和音。嘘のない音。この手は嘘をつかない。
「……ルシアン」
「何だ」
「手が、大きいですわね」
「……それは見れば分かるだろう」
「ええ。分かりますわ」
リーナは握り返した。自分の手がこんなにも小さいことを、初めて意識した。鑑譜眼で他人の嘘を暴き、帝国議会で公爵家に立ち向かう手。けれど今は、ただの十九歳の手だった。
二人はそのまま動かなかった。
中庭の陽射しが傾き、影が長くなっていく。井戸の水面に映った空が、青から橙へと変わりつつある。穏やかな時間。封印劣化も、ヴァレンシュタインの陰謀も、帝国議会の審問も、今だけは遠い。
リーナはルシアンの手の温度だけを聴いていた。
「……離すぞ」
「もう少しだけ」
リーナ自身、声に出したことに驚いた。ルシアンの手が一瞬だけ強くなり、すぐに元の力加減に戻った。何も言わなかった。ただ、そのまま。
* * *
帝都イグナシオンの城壁が見え始めたのは、五日目の夕刻だった。
リーナは馬上で、街の輪郭を見つめた。尖塔の群れが夕焼けに黒いシルエットを描いている。宮廷の大屋根、議会塔、星神教の大聖堂。帝国の心臓部。
何かがおかしかった。
リーナの瞳が金色に灼けた。鑑譜眼の発動。意識していなかったが、帝都の方角から流れてくる旋律に、体が勝手に反応したのだ。
低い不協和音が、地面の底から立ち上っていた。
出発前よりも、明らかに強い。地脈の旋律が歪み、金属を引き裂くような音が混じっている。帝都の地下で、何かが変わった。
「ルシアン」
「ああ。俺にも分かる」
ルシアンの碧眼が細くなった。闇属性の感覚で、地脈の異常を感じ取っているのだ。馬が不安げに首を振った。動物の方が、人間より敏感に察している。
「星脈の流れが乱れている。出発前はここまで酷くなかった」
リーナは馬を止めた。目を閉じ、鑑譜眼の精度を上げる。
聴こえる。帝都の地下から、封印の核が悲鳴を上げている旋律が。ヴァレンシュタイン家が百年間弄り続けた結果、封印の核は限界に近づいていた。そしてリーナが議会で告発し、調査が始まったことで、ヴァレンシュタイン家は封印への干渉を急いでいる。証拠隠滅のために。
「劣化が加速していますわ」
リーナの声が低くなった。
「ヴァレンシュタイン家が、調査が入る前に封印の核を処理しようとしている可能性がありますわ。証拠を消すために、封印をさらに弄っている」
ルシアンの拳が、手綱を握りしめた。革が軋む音がした。
「急ぐぞ。帝都に入る前に、シュヴァルツベルク家の情報網に連絡を入れる」
馬の腹を蹴る。二頭の馬が街道を駆け始めた。蹄が乾いた土を叩き、砂煙が舞い上がる。夕焼けの帝都が、みるみる近づいてくる。
リーナは走りながら、鑑譜眼で帝都の旋律を聴き続けた。封印の悲鳴が、一歩近づくごとに大きくなる。低く、重く、大地の底から響く不協和音。カスカーラでカイトが語った言葉が蘇る。「遠くの二箇所から引っ張られてるような感覚」。あの少年が迷宮の深層で感じた振動と、今リーナが聴いている帝都の封印の悲鳴は、同じ構造の異なる側面なのだ。
三つの封印は繋がっている。一つが崩れれば、全てが崩れる。
帝都の空に、赤い光が混じり始めていた。夕焼けではない。地脈の異常が大気に滲み出しているのだ。街の人間はまだ気づいていないだろう。だがリーナの鑑譜眼には、はっきりと聴こえていた。
封印劣化は加速している。
カスカーラで得た情報。三つの封印の構造。カイトの決意。ミーリアの力。全ての駒は揃いつつある。だが時間が足りない。ヴァレンシュタイン家の暴走が、全てを台無しにしかねない。
リーナは馬上で唇を引き結んだ。銀髪が風に靡く。金色の瞳が、帝都の赤い空を見据えていた。




