第68話 核紋が賑やかな少年
リーナは階段の途中で立ち止まった。
ロビーの隅に座る少年の核紋が、嵐のように鳴り響いている。空の器に詰め込まれた属性の欠片が、それぞれ別の旋律を奏でている。前に見かけた時は三つか四つだった。今は十を超えている。
旋律の隙間に傷がある。呪核の痕跡。傷口は塞がっているが、痕だけが残っている。けれど傷ごと統合して、自分の力にしている。
リーナはルシアンに視線を送った。
「ええ。酒場で見かけた少年。今度は話しかけますわ」
ルシアンが僅かに頷いた。碧眼がロビーの出入口と窓を確認している。護衛の癖が抜けない男だった。
リーナは階段を降り、少年の前に立った。銀髪が揺れる。紫の瞳が金色に光っている。
「あなたの核紋、以前より随分と賑やかになりましたわね」
少年が顔を上げた。短剣を巻いていた革紐の手が止まる。灰色の瞳が、リーナの金色の瞳を真っ直ぐに見据える。
「……何者だ、お前。前に酒場で見た、あの貴族の女か」
「覚えていてくださって光栄ですわ」
「覚えてるさ。あの不気味な目」
少年の声には遠慮がなかった。敵意ではなく、純粋な警戒。核紋が脈動するように振動している。この少年の体は、鑑譜眼の視線を脅威として感知しているのだ。
「で、何の用だ」
「リーナ・クレスタフェルデ。帝国の鑑譜師ですの」
「鑑譜師」
少年の眉が僅かに動いた。
「だからあの時、俺の核紋が見えたのか」
「ええ。あなたの核紋は非常に興味深い旋律ですわ。お時間をいただけますかしら」
少年の灰色の瞳が細くなった。値踏みするような視線。それから背後のルシアンに目を向ける。黒い外套の奥にある碧眼と、一瞬だけ視線がぶつかった。二人とも目を逸らさない。
少年がルシアンから視線をリーナに戻した。
「何の用だ」
「あなたが潜っているダンジョンの最深部について、お聞きしたいのです」
ルシアンが後ろから一歩進み出た。
「封印の核についてだ。帝国の安全に関わる」
少年の表情が変わった。「封印」という言葉に反応したのだ。リーナの鑑譜眼が、その瞬間の核紋の揺れを捉えていた。空の器の底で、何かが共鳴するように震えた。
「……酒を奢れ。話はそれからだ」
* * *
銅の角杯の奥のテーブル。午後の客はまばらで、冒険者たちの大半はダンジョンに潜っている時間帯だった。窓から差し込む西日が、木のテーブルに橙色の影を落としている。
少年は名前をまだ名乗っていない。エールを一口飲んでから、リーナを睨んだ。
「で。最深部に何がある」
「それをあなたに確認したいのですわ。あなたは、この街のダンジョンの最深部に到達しようとしている唯一の冒険者だと聞きました」
「唯一かは知らねえ。ただ、深くまで潜れる奴は限られてる」
「二十五階層の先に、封印の核があると推測しています。大地の奥深くに埋められた、百年前の大聖女アリーシアの遺産」
少年の杯を持つ手が止まった。エールの泡が指の間で潰れていく。
「封印の核。お前、どこでそれを知った」
「帝都の文書記録からですわ。ヴァレンシュタイン公爵家が百年間隠蔽してきた情報の中に、封印の構造に関する記述がありました」
リーナは慎重に言葉を選んだ。この少年は嘘をつかない。こちらも真実だけを差し出さなければ、交渉は成立しない。
「あなたの名前を教えていただけますかしら」
「……カイト」
短い。飾りのない名乗り。核紋に嘘の不協和音はなかった。
「カイトさん。わたくしは、あなたに取引を持ちかけに来ましたの」
カイトの灰色の瞳が、再びリーナを射抜いた。
「取引」
「ええ。あなたがダンジョン最深部で感じた情報を教えていただく代わりに、わたくしからもあなたに有用な情報を提供いたしますわ」
「俺に有用な情報だと? 帝都の貴族に何が分かる」
「分かりますわ」
リーナは杯をテーブルに置いた。姿勢を正し、声を落とした。
「わたくしの鑑譜眼は、核紋に刻まれた情報を読み取る力ですの。あなたの核紋を読んだわけではありませんけれど、帝都の文書から、あなたに関係する情報を見つけましたの」
リーナは一枚の羊皮紙の写しを取り出した。ルシアンが帝都の文書庫から複写したもの。ヴァレンシュタイン家の管理下にあった記録の一部。
「ヴァイスリッター家弾圧に関する文書ですわ」
テーブルの空気が変わった。
カイトの核紋から、鋭い振動が走った。リーナの鑑譜眼が捉える。空の器の中で、詰め込まれた属性の欠片が一斉に震えた。怒りだった。深く押し込められた怒りの旋律。だがそれだけではない。喪失の音。何かを失った者だけが奏でる、低く長い通奏低音。
カイトの手が、テーブルの上で拳を握った。指の関節が白くなっている。
「お前、それをどこで手に入れた」
声が低い。杯を持つ余裕もなくなっている。灰色の瞳が鋭く光った。
「ヴァレンシュタイン家の封印研究室に保管されていた文書の中にありましたの。弾圧の命令書、財産没収の記録、そして関係者の処遇に関する詳細が」
カイトは文書の写しを手に取った。灰色の瞳が文面を追う。文字を追う速度がゆっくりと落ちていく。後半に差し掛かった時、指先が微かに震えていた。
リーナは黙って見ていた。この少年にとって、ヴァイスリッターという名前は傷そのものなのだ。
やがて、カイトが文書をテーブルに置いた。丁寧に、しかし力を込めて。羊皮紙がテーブルの木目に押しつけられた。
「……なぜ、俺にこれを見せた」
「あなたの核紋が嘘をついていないからですわ。わたくしの鑑譜眼は嘘を暴く力ですけれど、同時に、真実を聴く力でもありますの。あなたは信頼に足る方だと判断しました」
カイトはしばらく黙っていた。エールの泡が潰れていく音だけが、薄暗い酒場に漂う。窓の外で海鳥の鳴き声がした。
「最深部。二十四階層の先で、地面が震えてた」
ぽつりと、カイトが口を開いた。
「ダンジョンの振動じゃねえ。もっと深い。地脈の底から何かが引っ張られてるような感覚だ。遠くの二箇所から力がかかってる。それが何なのか、俺にはまだ分からなかったが」
リーナの指先が、テーブルの上で微かに動いた。
「二箇所から引っ張られている。帝都と……辺境」
「知ってるのか」
「ええ。それが封印の核ですわ。三つの地脈の交差点に、それぞれ」
リーナの言葉が途切れた。
カイトの核紋が、一瞬だけ揺れた。
旋律が乱れたのではない。空の器に詰め込まれた無数の欠片が、一斉に震えた。まるで泣いたように。ヴァイスリッターの文書を読んだ余波が、核紋の深い場所に触れたのだろう。少年の意思とは関係なく、器の底に沈んだ古い記憶が反応したのだ。
リーナは見逃さなかった。




