第66話 銅の角杯ふたたび
迷宮都市カスカーラの門をくぐった瞬間、潮の匂いが鼻を掠めた。
石畳に染みた海塩の匂い、荷馬車が軋む音、冒険者たちの革鎧が擦れる音。議会の重苦しい空気から解放されたわけではないが、リーナの肩から僅かに力が抜けた。
「前に来た時と変わりませんわね」
「表は、な」
ルシアンが低く応じた。碧眼が街路を素早く走査している。シュヴァルツベルク家の情報網は、ヴァレンシュタインの密使がこの街に先着していることを掴んでいた。
「ギルド本部に行く前に、酒場で情報を拾いますわ」
「銅の角杯か」
「ええ。冒険者の口は、エールで緩みますもの」
門前の広場を抜け、港に面した通りを東へ歩く。干物を並べた露店の脇を過ぎると、角杯を象った銅の看板が見えた。以前訪れた時と同じ、黒ずんだ扉。
* * *
ギルド併設酒場「銅の角杯」は、夕刻の喧噪に満ちていた。
壁に掛けられた銅製の角杯が薄暗い照明を受けて鈍く光る。焼けた肉の匂いとエールの苦い香りが混ざり合い、冒険者たちの太い笑い声が天井に跳ね返っている。
以前この酒場を訪れた時、隣の席にいたあの少年のことが頭を掠めた。空のようで空ではない、奇妙な核紋。あの時はルシアンに止められて深追いしなかったが、今回は違う。封印の核に関する情報が必要だった。
リーナは奥のテーブルに腰を下ろし、エールを注文した。給仕の少女が木の杯を置く。泡がこぼれ、テーブルの木目に染み込んだ。
ルシアンが背後の壁際に立つ。護衛の位置。帝都では冷血公子の異名で知られる男だが、カスカーラでは無名の随行者として振る舞う手筈になっていた。黒い外套のフードを目深に被り、碧眼だけが暗がりで光っている。
鑑譜眼を微かに発動させる。瞳が一瞬だけ金色に揺れた。
酒場にいる冒険者たちの核紋から、雑多な旋律が立ち上る。大半は些末な嘘だった。戦績の水増し、報酬の誤魔化し、二日酔いを隠す言い訳。日常の不協和音。聴き流す。
リーナが探しているのは、ダンジョン最深部に関する情報だった。
「ねえ、最深部って本当に到達不能なの?」
隣のテーブルで若い冒険者の女が仲間に尋ねている。赤毛の女。肩から下げた弓に狩りの傷が刻まれている。リーナは視線を向けず、耳だけを傾けた。
「ああ、十五階層から先は魔物の質が変わる。銀級でも二十階層が限界だ」
「じゃあ誰も行けないってこと?」
「まあ、一人だけ……」
男の声が急に小さくなった。リーナの鑑譜眼が反応する。男の核紋に、微かな畏怖の旋律が混じっていた。声をひそめるのは、噂話だからではない。本気で畏れている。
「あの『喰い』の小僧なら、行けるかもしれねえって話はあるけどな」
喰い。リーナの指が、エールの杯を握りしめた。
あの少年の核紋を初めて聴いた時の違和感が蘇る。空のはずの器に、別の旋律が重なっていた。まるで何かを「上から被せた」ような不自然な和声。あれが「喰い」だとすれば、他者の核紋の欠片を取り込む能力なのか。
酒場の奥、カウンター近くに座る老冒険者の方が、より詳しい情報を持っていそうだった。白髪交じりの髪と日焼けした肌。左手の小指と薬指がない。長年この街で潜ってきた者の風格がある。
リーナはエールの杯を持ち、さりげなくカウンター席に移った。
「失礼いたしますわ。少しお時間をいただけますかしら」
老冒険者が目を細めた。カウンターに肘をつき、リーナの銀髪と紫の瞳を上から下まで見る。
「貴族の嬢ちゃんが、こんな酒場で何の用だい」
「ダンジョンの最深部について、お詳しい方を探しておりますの」
「最深部か」
老人はエールを手に取り、一口飲んでから杯をカウンターに置いた。
「俺も若い頃は二十二階層まで潜った。そこで左手の指を二本持っていかれてな。それが限界だった」
リーナの瞳が淡く光った。老冒険者の核紋を聴く。地属性の落ち着いた旋律。年月を重ねた者特有の、深い響き。嘘はない。
「二十二階層より先を知る者は、この街にいますの?」
「一人だけな」
老冒険者が身を乗り出した。声を落とす。
「核紋を喰らう少年。あいつなら行けるかもしれん。いや、行ける。あの小僧の核紋は化け物だ。見たことがない。空っぽの器に、魔物の力を次々と詰め込んでいく。常識外れだよ」
「直接お会いになったことは?」
「何度もあるさ。この酒場の常連だ。黒髪で目つきの悪いガキだが、嘘はつかねえ。酒代を踏み倒さないだけでも上等な冒険者だよ」
核紋の旋律に嘘はなかった。確信に満ちた和音。この老人は本気でそう信じている。
「ありがとうございますわ。大変参考になりました」
リーナはカウンターを離れ、ルシアンの元に戻った。声を落とす。
「最深部に到達できるのは、あの少年だけだそうですわ。老冒険者の核紋にも嘘はありませんでした。黒髪で目つきが悪い、この酒場の常連だと」
「あの不思議な核紋の少年か」
「ええ。それともう一つ、気になることがありますわ」
リーナは酒場を見回した。鑑譜眼をもう一度発動する。今度はカウンターの奥、ギルドの事務区画に繋がる扉の方を。
壁の向こうから、微かだが聴き覚えのある不協和音が漏れていた。帝都の議場で幾度も聴いた音。権力と金銭が結びつく時に生まれる、ぬめるような旋律。
「ギルドの事務区画から、ヴァレンシュタイン系列の旋律が聴こえますわ」
ルシアンの碧眼が鋭くなった。
「グリフォンハート公爵家か」
「断定はできませんわ。でも資金の流れを辿れば、繋がっているはずですわ。冒険者ギルドは中立のはずなのに、五大公爵家の資金が流れ込んでいる」
ルシアンが顎を引いた。
「グリフォンハートはギルドへの最大の資金提供者だ。その裏でヴァレンシュタインの意向が動いているなら、最深部の立入禁止措置も」
「政治的な封鎖ですわね。封印の核を誰にも触れさせないための」
リーナはエールの残りを飲み干した。ぬるくなった麦芽の苦味が喉を通る。杯をテーブルに置き、指先で縁をなぞった。
「明日、ギルドマスターに面会を申し込みますわ。皇帝代理の勅書がありますもの」
「やり方が随分と板についてきたな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。もっとも、帝都に戻ればもう少し手荒いやり方が必要になるでしょうけれど」
「……楽しそうだな」
「ええ。嘘を暴くのは、わたくしの天職ですわ」
リーナが薄く笑った時、酒場の奥から一つの旋律が近づいてきた。
鑑譜眼が勝手に反応した。瞳が金色に点る。
荒々しくて、混沌としていて、けれどどこか切ない。空の器に無数の欠片を詰め込んだような、あの旋律。前に聴いた時より、明らかに密度が増している。何をどれだけ喰らえば、こうなるのか。




