第65話 迷宮都市への旅路
帝都を出発したのは、夜明け前だった。
ルシアンが手配した馬車は二頭立て。護衛はシュヴァルツベルク家の精鋭が四名。闇属性の使い手が二名含まれている。ルシアン自身が選んだ人選だ。
「帝都からカスカーラまで、通常の街道で7日。東回りの裏街道を使えば5日で着く」
ルシアンが馬車の中で地図を広げた。公的な「私」の口調。護衛が近くにいるからだ。
「裏街道を使いますの?」
「ああ。シュヴァルツベルク家の交易路だ。通常の街道はヴァレンシュタイン家の関所がある。足止めされる可能性が高い」
リーナは頷いた。窓の外で、帝都の城壁が遠ざかっていく。夜明けの光が東の空を薄紫に染めている。
* * *
旅路の二日目。
裏街道は、帝都から東に伸びる交易路の脇道だった。正規の街道より細く、舗装も荒いが、馬車は着実に進んでいる。街道沿いの宿場で馬を替え、食糧を補給する。シュヴァルツベルク家の紋章が入った通行証が、宿場の主人たちを安心させた。
午後。馬車が林道に差しかかった時、リーナの鑑譜眼が反応した。
紫の瞳が、金色に揺れた。
「止めてください」
ルシアンが即座に合図を出した。馬車が止まる。護衛が周囲を警戒する。
「何が聴こえた」
「旋律ですわ。この街道を先に通った人間の核紋の残響が、道の上に残っていますの」
リーナは馬車の窓を開け、街道の地面を見つめた。鑑譜眼が深く発動する。
道の上に、薄い旋律が残っていた。馬蹄の跡。一頭ではない。三頭以上。旋律の残響は新しい——一日以内に通過したものだ。
「三騎以上の一団が、この道を先に通っていますわ。残響の中に——」
リーナの眉が寄った。
「ヴァレンシュタイン家の旋律が混じっていますの」
ルシアンの碧眼が鋭く光った。
「密使だ。先回りしている」
「ええ。カスカーラに向かっていますわ。わたくしたちより先に」
「目的は何だ。迷宮の封印に何をするつもりだ」
「わかりませんわ。ただ——残響の旋律に、焦りの不協和音が濃く混じっていました。急いでいる。追い詰められた者の音色ですの」
ルシアンが地図を再び広げた。指が迷宮都市カスカーラの位置を押さえる。
「先回りするか、後から追うか」
「先回りは困難ですわ。彼らは身軽な騎馬隊。こちらは馬車」
「なら別の手だ」
ルシアンが護衛の一人を呼んだ。闇属性の使い手。影の中に溶け込むように立っていた男が、馬車の窓際に来た。
「カスカーラのシュヴァルツベルク支部に伝令を出せ。ヴァレンシュタイン家の密使が三騎以上、迷宮都市に向かっている。支部の者に監視をつけさせろ」
護衛が頷き、影の中に消えた。闇属性の隠密伝達。通常の伝書鳩より速く、傍受されない。
リーナは窓の外を見つめた。林道の木々の間から、東の空が見えている。カスカーラは東部沿岸。あと三日の距離だ。
「ヴァレンシュタイン家が迷宮に手を伸ばしているなら、封印の状態は想定より深刻かもしれませんわね」
「三つの封印の核。帝都はヴァレンシュタインが弄っている。辺境にはミーリアの力がある。残る迷宮の核が——最も無防備だ」
「無防備。そう、それが問題ですわ」
* * *
旅路の四日目。
裏街道は山間部を抜け、東部の平野に出た。空気が変わった。潮の匂いが混じっている。海が近い。
馬車の中で、リーナは地図を眺めていた。カスカーラまで残り一日。ルシアンは護衛と打ち合わせをしている。
窓の外の風景が変わっていく。帝都周辺の整然とした農地から、雑然とした交易路の喧騒へ。東部は帝都の統制が弱く、冒険者や傭兵、行商人が入り混じる地域だ。
リーナは以前この道を通った時のことを思い出していた。半年前の旅。カスカーラへの調査行。あの時はまだ、鑑譜眼の残響を読む力がなかった。
あの時、酒場で隣の席に座った少年がいた。
「ルシアン」
護衛との打ち合わせを終えたルシアンが、馬車に戻ってきた。二人きり。口調が切り替わる。
「どうした」
「前にカスカーラを訪れた時のことですけれど」
「ああ」
「酒場で——不思議な核紋の少年がいましたの。覚えていますか」
ルシアンの碧眼が、記憶を探るように細まった。
「冒険者の少年か。お前が『核紋が賑やか』だと言った」
「ええ。あの少年の核紋、今思い返すと——とても奇妙でしたわ。一つの核紋の中に、複数の旋律が重なっていた。あれは通常ありえないことですの」
「空の核紋」
「何ですの、それ」
「シュヴァルツベルク家の文献に記述がある。基底形状が無属性の器——他者の核紋の欠片を取り込む特異体質。極めて稀な存在だ」
リーナの紫の瞳が見開かれた。
「他者の核紋を取り込む。それが、あの少年の旋律の正体——」
「確証はない。だが、お前の耳で確認する価値はある」
「今もカスカーラにいるかしら」
「冒険者だ。迷宮に潜っているなら、カスカーラを拠点にしている可能性は高い」
リーナは窓の外に目を戻した。夕陽が平野を赤く染めている。
封印の核。迷宮の最深部。ヴァレンシュタイン家の密使。そして、不思議な核紋の少年。
「カスカーラは、面白い街になりそうですわね」
「面白がっている場合か」
「面白がらなければ、やってられませんわ」
ルシアンが唇の端を上げた。笑ったのかもしれない。しかしすぐに真顔に戻った。
「明日の夕方には着く。着いたらまず、シュヴァルツベルクの支部に密使の動向を確認する。その後でギルドに接触する。迷宮の封印に近づくには、ギルドの許可が必要だ」
「承知していますわ。それと——」
「なんだ」
リーナは星脈鉄のイヤーカフに指を触れた。微かに振動している。星脈の流れが、帝都より強い。東部は聖域山脈の分脈が地下を走っている地域だ。
「迷宮都市に近づくほど、星脈の旋律が濃くなっていますわ。帝都の地下とは比べものにならないほど」
「封印の核が近いからだな」
「ええ。そして——もし封印が劣化しているなら、その旋律にも不協和音が混じっているはずですの。カスカーラに着けば、鑑譜眼で確認できますわ」
馬車が揺れた。車輪が石畳の継ぎ目を越える音。夕陽の中で、東の空に薄い雲が棚引いている。
迷宮都市カスカーラ。封印の三番目の核。
あの不思議な核紋の少年がいた街。今もあの街にいるだろうか。
リーナの紫の瞳が、夕焼けの空を映していた。明日には着く。嘘と秘密に満ちた帝都を離れ、別の種類の嘘と秘密が渦巻く街へ。
嘘は、どこにでもある。けれど鑑譜眼は嘘を暴くだけではない。真実を見つける目でもあるのだ。
馬車は東へ進んだ。潮の匂いが、一段と強くなった。




