第64話 ヴァレンシュタインの牙
反撃は、三日後に来た。
クレスタフェルデ伯爵邸の書斎。父エーリヒが机の上に書状の束を広げている。皺の刻まれた額に、深い縦線が入っていた。
「リーナ。見てくれ」
リーナは書状を一枚ずつ手に取った。
一通目。帝都の繊維商組合からの通知。クレスタフェルデ伯爵領の羊毛取引を停止する。理由は「品質基準の再審査のため」。
二通目。南部の穀物商からの通知。今季の穀物輸送契約を白紙に戻す。理由は「輸送路の安全確認のため」。
三通目。帝都の金融商からの通知。クレスタフェルデ伯爵家への融資枠を縮小する。理由は「財務状況の再評価のため」。
四通目。五通目。六通目。
全て、異なる理由で同じことを言っている。取引停止。信用の切り離し。伯爵家を孤立させる。
「いつから」
「昨日の朝、最初の通知が届いた。そこから半日で十二通だ」
エーリヒの声は、静かだった。怒りではなく、覚悟の声。
「ヴァレンシュタイン家からの指示だな」
「ええ」
リーナは鑑譜眼を使うまでもなかった。この手口は予測していた。ルシアンも警告していた。政治で勝てないなら経済で締め上げる。ヴァレンシュタイン家が百年間使い続けた常套手段だ。
「想定内ですわ、お父様」
「わかっている。だが、想定内であることと、痛みがないことは違う」
エーリヒの灰色の瞳が、娘を見つめた。
「領民が困る。羊毛が売れなければ牧羊家が、穀物が運べなければ農家が」
「承知していますわ」
リーナは書状の束を机に戻した。
「だからこそ、先手を打ちますの」
* * *
ルシアンが伯爵邸に到着したのは、昼過ぎだった。
護衛を二名伴い、書斎に入る。エーリヒに一礼し、リーナの隣に立った。
「状況は把握している。シュヴァルツベルク家の交易網で代替ルートを手配した」
ルシアンが地図を広げた。帝都とクレスタフェルデ領を結ぶ交易路が描かれている。
「羊毛は東部の織物商に直接卸す。シュヴァルツベルク家の東部拠点が仲介する。穀物輸送は、南部ルートを避けて東回りに変更。こちらも手配済みだ」
「融資は」
「シュヴァルツベルク家が保証人になる。一時的な措置だが、伯爵家の信用を維持するには十分だ」
エーリヒが頭を下げた。
「シュヴァルツベルク公爵家に、ここまでの恩を——」
「恩ではありません」
ルシアンの声は公的な「私」だった。エーリヒの前では、常にそうだ。
「伯爵家はシュヴァルツベルク家にとっても重要な取引先です。ヴァレンシュタインの横暴を黙認すれば、次は我が家が狙われる」
リーナは、ルシアンの言葉の中に嘘がないことを確認した。鑑譜眼は使っていない。使わなくても、わかる。
「ルシアン様。もう一つ」
「何だ」
「ヴァレンシュタイン家がこれだけ露骨な経済圧力をかけてきたということは、議会での調査委員会が相当効いているということですわ。追い詰められた獣は牙を剥く。同時に——隠していた腹を見せる」
ルシアンの碧眼が光った。リーナの意図を理解した目だ。
「財務を調べろということか」
「ええ。ヴァレンシュタイン家がこれほどの経済圧力を短期間でかけられるのは、資金が潤沢だからですわ。しかし公爵家の公式な収入源——軍事予算と領地収入だけでは、この規模の工作は不可能ではないかしら」
「不正な資金源がある」
「そう思いますの。軍事予算の流用。帝国騎士団の予算が、本来の用途とは異なる方向に流れている可能性」
* * *
三日後。
ルシアンの情報網が、結果を持ち帰った。
シュヴァルツベルク家の財務部門が、帝国の公開財務記録を精査した結果。帝国騎士団の過去五年分の予算執行報告書に、不審な支出が複数見つかった。
リーナはルシアンの書斎で、報告書を受け取った。
「武器調達費の水増し。演習費用の架空計上。合計で——」
ルシアンが数字を指した。
「金貨三万枚相当。五年間で」
リーナの眉が上がった。
「金貨三万枚。馬に換算すれば三万頭ですわ。帝都の街一つを買えるほどの額」
「ディートリヒが騎士団長になった後、支出が急増している。騎士団長の権限で予算を操作し、余剰金をヴァレンシュタイン家の工作資金に回していた」
「ディートリヒ自身が認識しているのかしら」
「おそらく、父親に指示されている。ディートリヒの核紋には、大崩落の残響がなかっただろう。父から真相を知らされていなかった。だが軍事予算の流用については——」
「知っている可能性がありますわね」
リーナは報告書を閉じた。指先で表紙を撫でる。羊皮紙の手触りが、冷たかった。
「これを調査委員会に提出しますわ。聖女条件の不正に加えて、軍事予算の流用。ヴァレンシュタイン家は、帝国の制度そのものを私物化していた」
リーナの鑑譜眼が、微かに反応した。報告書の数字の列から、不正の旋律が滲んでいる。直接触れた人間の核紋の残響が、帳簿の数字にまで染みついていた。嘘で塗り固められた数字は、こうも不協和音を放つものなのだ。
ルシアンが頷いた。
「ただし、気をつけろ。ディートリヒは騎士団長だ。軍の指揮権を持っている。追い詰めすぎれば、政治ではなく力で来る可能性がある」
「力で来たら」
「シュヴァルツベルクが抑える。だが、それは最後の手段だ」
書斎の窓の外。帝都の空に薄い雲がかかっている。
「ルシアン」
周囲に人はいない。口調が切り替わった。
「お前の父が心配だ。伯爵は強い人間だが、限界はある」
「父は大丈夫ですわ」
「大丈夫じゃなくても、お前にはそう言うだろう」
リーナは唇を噛んだ。その通りだった。エーリヒは娘に弱みを見せない。父の旋律に不安の音色が混じっていることを、リーナは聴いている。しかし父は娘の前で、一度も弱音を吐かなかった。
「わたし——」
「わかっている。だから俺が支える。お前は前を向け」
ルシアンの手が、リーナの手の甲に触れた。一瞬だけ。温かい指先。そしてすぐに離れた。
「追い詰めるほど、あの家は牙を剥く。けれど牙を剥くほど——核紋の不協和音は大きくなる」
リーナは窓の外を見つめた。
帝都の屋根の向こうに、聖域山脈の稜線が霞んで見えた。三つの封印の核。帝都。辺境。迷宮。
帝都の地下はヴァレンシュタイン家が弄っている。辺境にはミーリアがいる。残る一つ——迷宮の最深部。あの封印の状態を確認しなければならない。
「カスカーラに行く必要がありますわね」
「ああ。迷宮都市。封印の三番目の核がある」
リーナの紫の瞳が、遠くの山脈を映していた。風が窓の隙間から吹き込み、銀髪を揺らした。
「調査委員会に資料を提出したら、すぐに出発しますわ」




