第62話 聖女条件の嘘
封印研究室の記録庫は、帝都の地下三階にあった。
石造りの通路。魔導灯の青白い光が壁を照らしている。ルシアンの手配で調査委員会の令状を得たリーナは、帝国軍の護衛つきで記録庫に入った。
令状がなければ立ち入れない場所。百年間、ヴァレンシュタイン家だけが鍵を持っていた部屋。
扉が開いた。
埃の匂いが鼻を突く。棚に並んだ古い文書の束。羊皮紙と革表紙。背表紙の文字は色褪せ、蜘蛛の巣が隅に張っている。
「光を」
ルシアンが護衛兵に指示した。魔導灯の光量が上がる。記録庫の全容が浮かび上がった。壁一面の棚に、百年分の文書が整然と並んでいる。
リーナは棚の前に立った。
「百年前の議会記録は」
「奥の棚だ。年代順に並んでいるはずだが——ヴァレンシュタイン家が管理していた以上、都合の悪い文書が抜かれている可能性がある」
「抜かれていても構いませんわ」
リーナは指を伸ばし、棚の背表紙に触れた。
「抜いた痕跡にも、旋律は残りますの」
* * *
百年前の帝国議会議事録。第二十三回臨時会。
リーナは文書を開き、鑑譜眼を発動した。
紫の瞳が金色に染まる。インクの下から旋律が立ち上った。百年前の議員たちの声が、薄く、遠く、しかし確かに聴こえる。
議事録の第七頁。「帝国聖女任命条件の改定について」。
リーナの指が止まった。
「ありましたわ」
ルシアンが横から覗き込んだ。
「改定案の提出者は、ヴァレンシュタイン公爵家当主アルフレート・ヴァレンシュタイン。百年前の公爵ですわ」
「改定の内容は」
「聖女の任命条件を『光属性S級以上』に限定する。理由は、封印の安定化に必要な属性が光属性であるため」
リーナの唇が、微かに歪んだ。
「嘘ですの」
鑑譜眼がインクの下の旋律を読み取っている。百年前の筆跡に刻まれた残響。議事録を書いた書記官の核紋の欠片が、文書に微かに残っていた。
「書記官の旋律に、困惑の不協和音がありますわ。この条件の改定に——書記官自身が疑問を感じていた痕跡ですの」
「つまり」
「当時から、この条件は不自然だと感じた人間がいた。しかし公爵家の圧力で、疑問を口にできなかった」
リーナは議事録を閉じ、次の棚に手を伸ばした。
隣の棚。大崩落直後の記録。封印修復委員会の内部文書。
この文書にも触れた。鑑譜眼が深く発動する。瞳の金色が一段と濃くなった。
「ルシアン様。見つけましたわ」
声が震えていた。
「封印に直接触れることができるのは、光属性ではなく星属性の持ち主だと——封印修復委員会の技術者たちは知っていた。大聖女アリーシアは星属性だった。光属性では封印の核に到達できないと、技術的に結論が出ていた」
「それが改竄された」
「ええ。ヴァレンシュタイン家は、星属性の持ち主を排除するために光属性S級を条件にした。理由は明白ですわ。星属性の者が封印に触れれば——大崩落の真実が露呈するから」
ルシアンの碧眼が鋭く光った。
「封印の核には、ヴァレンシュタイン家の実験の痕跡が残っている。星属性の持ち主がそれを感知すれば、大崩落が人災だったことが明らかになる」
「百年間。百年間ずっと、偽の条件で偽の聖女を作り続けていたのですの」
* * *
記録庫の奥に、もう一つの棚があった。
エーデルシュタイン公爵家の共同研究記録。封印修復委員会とエーデルシュタイン家の魔導院が共同で開発した魔導具の一覧。
リーナは一冊の研究報告書を引き出した。表紙に『聖光増幅装置(仮称:聖光の器)開発記録』と記されている。
「聖光の器」
リーナは文書を開いた。鑑譜眼が発動する。三度目。頭の奥に鈍い痛みが走った。しかし止められない。
研究報告書の中身は技術的な記述が大半だったが、鑑譜眼が捉えたのは技術ではなく、意図だった。
「出力を増幅する装置ですの。光属性の出力を、鑑定時にS級相当に見せかけるための」
ルシアンが報告書を手に取り、頁をめくった。
「原理は単純だな。核紋の光属性出力に増幅をかけ、聖光の儀での測定値を底上げする。A級の者がS級と判定される」
「現聖女クラリッサ・エーデルシュタインは、光属性A級ですの。S級ではない。この装置で偽装されていた」
リーナは報告書を閉じた。頭痛が増している。鑑譜眼の負荷だ。
「クラリッサ。フローラの妹」
呟くように言った。
「エーデルシュタイン家の次女。偽聖女。彼女自身が望んでそうなったのか、それとも——」
「家の命令だろう。エーデルシュタイン家はヴァレンシュタイン家との婚姻同盟で政治力を維持してきた。聖女の座はその見返りだ」
ルシアンの声は冷静だったが、碧眼の奥に怒りの光があった。
「少女が一人、国家的な嘘の道具にされている」
「ええ」
リーナは棚に手をついた。眩暈がする。鑑譜眼の使い過ぎだ。ルシアンが黙って肩を支えた。
「大丈夫だ。休め」
「もう少しだけ」
「これ以上は許さない。資料は押収する。続きは明日だ」
リーナは反論しかけたが、ルシアンの碧眼を見て口を閉じた。怒っているのではない。案じている。その旋律は、鑑譜眼を使わなくても聴こえた。
「……わかりましたわ」
* * *
記録庫を出たのは、日が沈んだ後だった。
帝都の夜空に星が瞬いている。ルシアンの馬車が地下道の出口に待っていた。
馬車の中。護衛兵の姿は外にある。二人きりになった瞬間、ルシアンの口調が切り替わった。
「三回も使うな。前も言っただろう」
「聴かなければわからないことがありますの」
「聴けなくなったらどうする」
沈黙が落ちた。馬車の車輪が石畳を転がる音だけが響いている。
「ルシアン」
「なんだ」
「偽聖女クラリッサ。フローラの妹ですわ。嘘つきの家系は、どこまでも深い根を張っていましたわね」
ルシアンが頷いた。碧眼が窓の外を見つめている。
「クラリッサ自身がどう思っているかは、これからわかるだろう。だが少なくとも——」
「少なくとも」
「聖女の条件が嘘なら、本物の聖女は別にいる。辺境の——あの少女だ」
リーナの脳裏に、グリュンハイムで視た少女の核紋が蘇った。透明で美しい旋律。大聖女アリーシアと同じ、星の音色。
「ミーリアさん」
小さく呟いた。
「あの方の力が本物なら——聖女の座に就くべきはクラリッサではない」
馬車が石畳の継ぎ目で揺れた。星脈鉄のイヤーカフが微かに鳴った。
「明日、調査委員会に報告しますわ。聖女条件の不正と、聖光の器による偽装の証拠を。そして——」
リーナの紫の瞳が、夜の街灯を映して光った。
「辺境に、本物の聖女候補がいることを」




