第61話 嵐の前の議場
調査委員会の設置を巡る議論は、特別査問会の翌日から始まった。
帝国議会の大議場に、三百を超える議員が詰めかけている。百年の嘘が公になった衝撃が、議場の壁にまで染みついている。
リーナは傍聴席の前列に座っていた。
議長クロイツフェルト伯爵が開廷を告げた。
「本日の議題は、昨日の特別査問会における報告書を受け、ヴァレンシュタイン家に対する正式調査委員会の設置を決議するか否かである」
議場がざわめいた。
ヴァレンシュタイン派の議員たちが、一斉に手を挙げ始める。異議あり。時期尚早。証拠の精査が必要。手続きに不備がある。彼らの声が議場に反響して重なり合い、やがて一つの壁になった。
リーナの紫の瞳が金色に染まった。三百を超える核紋から旋律が立ち上り、議場全体が巨大な五線譜になる。
賛成派の旋律は整っていた。しかしその中にも、ヴァレンシュタイン家への恐怖が細く混じっている。
反対派の旋律は濁っていた。恐怖と保身の不協和音。
そして日和見派。彼らの旋律が最も複雑だった。どちらにつくべきかを計算する音色が、風見鶏のように揺れている。
リーナは瞳の光を収めた。これ以上は温存すべきだ。
「議長、発言を求めます」
声が上がった。
議場の右手——ヴァレンシュタイン派の席から、一人の男が立ち上がる。白髪の老人。帝国法典学の権威、ハインリヒ・ベッカー卿。宮廷法学院の前院長であり、帝国法に関する著作は三十を超える。
リーナの背筋が伸びた。来る。ルシアンが予測していた通りだ。
「議長に許可されたい」
クロイツフェルト伯爵が頷いた。
「ベッカー卿。発言を許可する」
ベッカー卿が壇上に立った。痩せた長身。銀縁の眼鏡の奥に、鋭い灰色の瞳がある。
「帝国法典第七章第十二条。証拠の定義と要件」
落ち着いた声だった。法廷に立ち慣れた人間の声。
「帝国法における証拠とは、複数の独立した検証者によって再現可能な事実でなければならない。すなわち、特定個人にしか認識できない能力——いわゆる鑑譜眼なるものによる主張は、証拠としての法的要件を満たさない」
議場に頷く声が広がった。中立派の何人かが、考え込むように腕を組んでいる。
「報告書には物証も添付されているが、報告者自身が認めているように、鑑譜眼による分析が調査の起点となっている。起点が法的要件を欠くのであれば、そこから導かれた結論もまた——」
「ベッカー卿」
リーナの声が、議場に落ちた。
ベッカー卿の言葉が止まった。三百の視線がリーナに集まる。
「傍聴席からの発言は」
「失礼いたしましたわ。議長、発言の許可をお願いできますか」
クロイツフェルト伯爵が一瞬間を置き、頷いた。
「報告者リーナ・クレスタフェルデ。発言を許可する」
リーナが立ち上がった。壇上には上がらない。傍聴席の前列から、議場全体を見渡す位置で。
「ベッカー卿のご指摘は、法理論としては正当ですわ」
議場が静まった。ヴァレンシュタイン派の議員たちが、予想外の譲歩に戸惑いの表情を浮かべている。
「鑑譜眼の証言が、それ単体で法的証拠たりえるかどうか。確かに議論の余地がありますわ。ですが」
リーナの紫の瞳が、金色に染まった。
鑑譜眼が、ベッカー卿の核紋を捉える。その奥に——残響があった。この数日以内に刻まれたもの。
金貨の音色。
大量の金貨が手渡された瞬間の残響が、ベッカー卿の核紋の底に沈んでいた。そして金貨を差し出した者の核紋の一部が——ヴァレンシュタイン家の紋章と同じ旋律を帯びていた。
「ベッカー卿」
リーナの声は、穏やかだった。
「あなたの核紋に、興味深い残響が聴こえますの」
ベッカー卿の指が、わずかに震えた。
「この数日以内に、大量の金貨を受け取っていらっしゃいますわね。お渡しになった方の核紋の残響に、ヴァレンシュタイン家の旋律が重なっていますの」
議場が凍った。
ベッカー卿の顔から血の気が引いている。銀縁の眼鏡の奥の灰色の瞳が、大きく見開かれた。
「な——」
「鑑譜眼は証拠能力を持たない。そうおっしゃいましたわね。では、ベッカー卿の口座を帝国財務局に照会することは可能でしょうか。鑑譜眼ではなく、帳簿という物証で確認するために」
議場がどよめいた。
ベッカー卿が口を開きかけ、閉じた。もう一度開き、しかし言葉が出てこない。額に汗が浮いている。
ヴァレンシュタイン公爵アルベルトの灰色の瞳が、ベッカー卿の背中を睨みつけていた。拳が肘掛けに食い込んでいる。
「議長」
中立派の席から、一人の伯爵が立ち上がった。
「調査委員会の設置に賛成する。ベッカー卿の資金の出所も、併せて調査すべきだ」
堰を切ったように、中立派の議員たちが次々と立ち上がった。
* * *
議会が閉廷した。
調査委員会の設置は、賛成二百三十七、反対八十四で可決された。
回廊を歩くリーナの隣に、ルシアンが並んだ。周囲に人がいる。彼の口調は公的な「私」のままだった。
「ベッカー卿を崩したのは見事だった。だが、あれで法学界を敵に回した可能性がある」
「構いませんわ。法学者の中にも、真実を重んじる方はいらっしゃるでしょう」
「問題はそこじゃない。ベッカー卿の背後にいる資金の流れだ」
ルシアンの碧眼が、廊下の先を見つめている。
「法の盾を金で買う。ベッカー卿は氷山の一角にすぎない」
リーナは頷いた。
「調査委員会が動き始めれば、もっと大きな嘘が表に出てきますわ」
「ああ。だからこそ、ヴァレンシュタイン家は次の手を打ってくる。今日の議場で聴こえた旋律——日和見派の何人かが、まだ揺れていただろう」
リーナの瞳が一瞬、金色に揺れた。
「ええ。風見鶏の旋律が六つ。彼らが反対に回れば、調査委員会は骨抜きにされますわ」
「骨抜きにさせない。俺たちの方が先に動く」
ルシアンの碧眼が光った。「俺」が一瞬だけ混じった。周囲に気づかれた様子はない。
リーナは微かに唇の端を上げた。不器用な男だ。けれどその不器用さの奥にある旋律を、リーナの耳は知っている。
「ルシアン様。次の一手は」
「聖女条件だ。あの嘘を暴けば、ヴァレンシュタイン家の根幹が揺らぐ」
リーナの紫の瞳が細まった。
聖女条件。光属性S級。帝国聖女の任命に必要な資格。だがあの資格そのものが、ヴァレンシュタイン家の作り上げた嘘だとしたら。
封印研究室の文書に、その痕跡があった。残響の中に、条件を操作した旋律が微かに聴こえていた。
「明日、調査委員会に追加資料を提出いたしますわ。聖女条件に関する——百年前の議会記録と、封印研究室の文書の照合結果を」
この帝国の嘘は、まだ底が見えない。




