第59話 報告書の完成
報告書の最終稿が完成したのは、深夜の鐘が三つ鳴った後だった。
クレスタフェルデ伯爵邸の書斎。机の上には羊皮紙の束が整然と並んでいる。表紙には『封印劣化に関する緊急報告書 附・ヴァレンシュタイン家による隠蔽工作の証拠』と記されていた。
リーナは羽ペンを置いた。インクに汚れた指先を眺める。三日三晩、この報告書に費やした。
構成は三部に分かれている。
第一部、封印劣化の実態。帝都・辺境・迷宮の三点封印が同時に劣化していること。星脈のエネルギー漏出が加速していること。このまま放置すれば、第二の大崩落が起きる可能性があること。
第二部、ヴァレンシュタイン家の隠蔽工作。封印研究の独占。星脈異常のデータの秘匿。議会への虚偽報告。百年間にわたる情報統制の全容。
第三部、大崩落の真因。百年前のヴァレンシュタイン家当主が行った封印実験。星脈のエネルギーを兵器に転用しようとした計画。実験の暴走と、それが引き起こした大崩落。天災ではなく、人災。
全七十二頁。証拠となる文書の複写を添付し、鑑譜眼による旋律分析の結果を図解にした。
「終わりましたわ」
リーナの声が、静かな書斎に落ちた。
向かいの椅子で、ルシアンが目を開けた。仮眠を取っていたのだろう。碧眼に一瞬の眠気が過ぎったが、すぐに鋭さを取り戻す。
「完成したか」
「ええ。見ていただけますか」
ルシアンが椅子から立ち上がり、リーナの隣に歩いた。報告書の頁を一枚ずつめくっていく。黒髪が灯りに照らされ、碧眼が文字を追う。
十分ほどかけて全頁を読み終えたルシアンが、報告書を机に戻した。
「文句のつけようがない。証拠の配列も論理構成も隙がない」
「でも、鑑譜眼の証言力に対する反論は来るでしょうね」
「来る。ヴァレンシュタイン家は必ず鑑譜眼の証拠能力を否定しにかかる。だが」
ルシアンが報告書の第三部を開いた。
「物証がある。文書の複写、封印遺構の写真記録、星脈劣化の観測データ。鑑譜眼の証言がなくても、これだけの物証があれば議会は動かざるを得ない」
「それが狙いですわ。鑑譜眼は入口に過ぎません。本当の武器は、証拠そのものですの」
ルシアンが頷いた。報告書を閉じ、表紙を手の甲で軽く叩いた。
「一つ確認する。報告書の第三部、大崩落の真因の記述。ここを公表すれば、帝国の建国史観そのものが揺らぐ。ヴァレンシュタイン家だけの問題では済まない」
「わかっていますわ」
「百年前の大崩落を天災と信じて生きてきた帝国民が、人災だったと知る。ヴァレンシュタイン家を裁くだけではなく、帝国そのものへの信頼が問われることになる」
「それでも、ですわ」
リーナは窓の方を向いた。帝都の夜が、窓の向こうに広がっている。
「嘘の上に立った信頼は、結局のところ嘘ですもの。本当の信頼は、真実を知った後にしか築けませんわ」
ルシアンの碧眼が、リーナの横顔をしばらく見つめていた。
「お前の言う通りだ。報告書はこのまま出す」
* * *
ルシアンが暖炉に薪を足した。炎が勢いを取り戻し、書斎に暖かさが広がる。
「明日、シュヴァルツベルク家の名で議会事務局に提出手続きを行う。緊急動議の形式だ。受理されれば、三日以内に特別査問会が開かれる」
「議会多数派がヴァレンシュタイン側についている以上、受理を拒否される可能性は」
「ない。緊急動議の受理は議長の専権事項だ。現議長のクロイツフェルト伯爵は中立派。公爵家の圧力に屈するような男ではない」
リーナは頷いた。ルシアンの政治的な根回しは、いつも正確だ。
「それと」
ルシアンの口調が切り替わった。公的な「私」から、私的な「俺」へ。
「これを出したら、後戻りはできない」
碧眼がリーナを見つめている。確認ではなく、覚悟の共有。
「後戻りなど」
リーナは椅子の背もたれから体を起こした。
「婚約破棄された日から、一度もしておりませんわ」
沈黙が落ちた。暖炉の炎が揺れ、二人の影が壁の上で重なっている。
ルシアンが一歩近づいた。
リーナは動かなかった。紫の瞳が、碧眼を真っ直ぐ見上げている。
ルシアンの手が上がった。リーナの銀髪に触れかけて、止まった。躊躇うように指先が宙に浮いている。
そして、不器用に。
リーナの額に、唇を落とした。
一瞬の温もり。ルシアンの唇が額から離れた時、リーナの耳は真っ赤だった。
鑑譜眼を使うまでもなかった。彼の旋律は完全な和音だった。嘘のない、純粋な一音。
「……ルシアン」
「何も言うな」
「言いませんわ。ただ」
リーナの指が、自分の額に触れた。唇の温もりが、まだ残っている。
「ありがとうございます、とだけ」
ルシアンが背を向けた。耳の先が赤い。黒髪の隙間から、わずかに見えた。
「俺は向こうの部屋にいる。何かあったら呼べ」
「ええ」
ルシアンが書斎を出ていった。扉が閉まる音。足音が遠ざかる。
リーナは一人、報告書の前に座った。
額に触れた。まだ温かい気がした。
鑑譜眼が、意図せず発動していた。ルシアンの旋律の残響が、書斎の空気にまだ溶けている。深く穏やかな低音。闇属性の旋律は、人前では冷たく聴こえる。だが二人きりの時、彼の旋律は暖炉の薪が爆ぜるような、静かな温もりに満ちていた。
リーナは目を閉じた。報告書を出せば、戦いが始まる。ルシアンの身にも危険が及ぶ。彼はそれを承知の上で「守る」と言った。
守られるだけの自分でいるつもりはなかった。鑑譜眼は盾にも剣にもならない。けれど、真実を伝える力にはなる。
「帰ってきたら」
誰もいない書斎で、リーナは小さく呟いた。
帰ってきたら。その先の言葉はまだ形になっていなかった。しかし、胸の奥で一つの旋律が静かに鳴り続けていた。
* * *
窓の外が白み始めていた。
リーナは報告書の表紙をもう一度撫でた。七十二頁の羊皮紙。その中に、百年の嘘が詰まっている。
この報告書が議会に届けば、全てが動き出す。もう止められない。
リーナは窓を開けた。帝都の東の空が、薄紫から橙色に変わり始めていた。
報告書は今日、帝国議会に届く。
百年の嘘が、ようやく旋律として表に出る。
リーナは窓の外の夜明けを見つめた。東の空に、細い月の名残が白く浮かんでいた。昨夜の欠けた月。朝の光の中で消えかけている。
リーナは窓を閉め、報告書を革の鞄に収めた。




