第58話 社交界の罠
フローラ・エーデルシュタインの茶会は、帝都で最も華やかな社交の場の一つだった。
エーデルシュタイン別邸の大広間。招待された令嬢は十二人。帝都の名家の娘たちが円卓を囲んでいた。
リーナへの招待状が届いたのは、昨日の夕刻だった。
「罠ですわね」
招待状を読んだリーナの第一声がそれだった。
ルシアンは腕を組んで壁に寄りかかっている。
「行くのか」
「もちろん。罠と分かっていて踏まないのは、罠を恐れているのと同じですもの」
「俺は中に入れない。女性限定の茶会だ」
「大丈夫ですわ。耳があれば十分です」
そう言って、リーナは銀のイヤーカフに触れた。星脈鉄の補助具が、午後の光を受けて微かに輝いている。
* * *
茶会の開始は午後二時。
リーナがエーデルシュタイン別邸の広間に足を踏み入れた瞬間、十二対の視線が集中した。
銀髪を緩く編み込み、淡い藤色のドレスを纏ったリーナは、穏やかに微笑んだ。
「フローラ様、本日はお招きいただきありがとうございますわ」
「ええ、リーナ様。お忙しい中お越しくださって」
フローラの微笑は完璧だった。銀灰色の髪、翡翠の瞳、薔薇色の唇。社交界で最も美しいと称される顔が、何の濁りもない笑みを浮かべている。
しかしリーナの鑑譜眼は、笑顔の下を聴いていた。
瞳が、ほんの一瞬だけ金色に光った。
フローラの核紋。表面は穏やかな旋律を装っているが、奥底で別の音が鳴っている。指揮者の音だ。この茶会を仕切っている指揮者の旋律。
リーナは席についた。紅茶が注がれ、砂糖菓子の皿が回される。世間話が始まった。
十五分ほど経った頃だった。
「ところで、リーナ様」
向かいに座る令嬢が口を開いた。ベルクマン伯爵家の長女、マリアンネ。栗色の巻き毛に青い瞳の令嬢だ。
「最近、社交界で噂になっておりますの。リーナ様の鑑譜眼について」
「あら、どのような噂でしょう」
「あの力が、本物かどうか。疑問を持つ方が増えているそうですの」
リーナの耳に、不協和音が響いた。マリアンネの核紋から。この言葉は、事前に用意された台詞だ。
左隣の令嬢が続いた。ホーエンフェルト子爵家のカタリナ。
「わたくしも伺いました。鑑譜眼は幻術の一種ではないかと。帝国魔導院の見解も出ているそうですし」
また不協和音。同じ種類の音。同じ指揮者に教えられた旋律。
さらにもう一人。ガラスの向こうからシュテルン男爵家のエリザベート。
「リーナ様が暴いたとされる嘘も、実は事前に調べた情報を鑑譜眼の名で発表しただけなのでは、という声も」
三人目の不協和音。
リーナは紅茶のカップを口元に運び、一口飲んだ。カップを置く音が、静かに広間に響いた。
十二人の令嬢の視線がリーナに集まっている。待ち構えるような視線。あるいは、観察するような視線。
リーナは微笑んだ。
「皆様の旋律が、見事に揃っていますわね」
広間の空気が、一瞬止まった。
「同じ指揮者に教えられた合唱のよう。音程も、タイミングも、息継ぎの位置まで揃っている。こんなに美しい斉唱は、なかなか聴けませんわ」
フローラの微笑が、僅かに固まった。
「何のことでしょう。皆様がそれぞれの意見を」
「いいえ、フローラ様。それぞれの意見ではありませんわ」
リーナの紫の瞳が、金色に変わった。
鑑譜眼が、全開になる。
「マリアンネ様。あなたが先ほどおっしゃった『鑑譜眼への疑問を持つ方が増えている』という言葉。これは昨晩、エーデルシュタイン別邸で行われた事前打ち合わせで指示された台詞ですわね。あなたの核紋には、指示を受けた時の緊張と、言わされている不快感の旋律が残っています」
マリアンネの顔から血の気が引いた。
「カタリナ様。『帝国魔導院の見解が出ている』とおっしゃいましたが、あなた自身がその見解を読んでいないことは核紋の旋律が示しています。誰かに要約を渡されただけ。しかもその要約には三箇所の歪みがありますわ。原文と食い違っている」
カタリナの手が、茶碗の取っ手を握りしめた。磁器が軋む音がした。
「エリザベート様。あなたのおっしゃった『事前調査説』は、フローラ様が直接あなたに伝えた内容ですわね。昨日の午後、この部屋で。あなたの核紋には、フローラ様と二人きりで話した時の残響がまだ残っていますの」
エリザベートが椅子から腰を浮かせかけた。しかし足が動かなかった。
広間が、凍りついた。
リーナは立ち上がらなかった。椅子に座ったまま、紅茶のカップを手にしたまま、穏やかに笑みを浮かべたまま。
「他の皆様も同様ですわ。九人の方は昨晩の打ち合わせに参加された。残りのお二人は今朝、個別に指示を受けた。全員の核紋から、同じ種類の不協和音が聴こえていますの」
令嬢たちの視線がフローラに集まった。「あなたが大丈夫だと言ったのに」という視線。
しかしフローラは助けなかった。翡翠の瞳で静かにリーナを見つめている。微笑すら浮かべている。
だがリーナの鑑譜眼は、フローラの核紋の奥深くで震えている旋律を聴いていた。
「フローラ様」
リーナが呼んだ。
「あなただけは平静を装っていらっしゃいますわね。さすがです。でも」
紫の瞳が、深い金色に染まった。鑑譜眼の精度が一段上がる。
「あなたの核紋の奥に、もう一つの旋律が聴こえますわ」
フローラの指先が、膝の上で微かに動いた。
「妹君の旋律と同じ。偽りの聖光」
フローラの微笑が、初めて揺らいだ。
一瞬だった。翡翠の瞳に走った亀裂は、次の瞬間には消えていた。しかしリーナは見逃さなかった。
茶会は、そこで終わった。
* * *
エーデルシュタイン別邸を出たリーナを、ルシアンが待っていた。馬車の脇に立ち、碧眼がリーナの表情を読み取ろうとしている。
「どうだった」
「収穫がありました」
リーナは馬車に乗り込みながら答えた。
「茶会の罠は崩しました。でも、それよりも大きなものが見えましたの」
「何が見えた」
「フローラの核紋の奥に、偽りの聖光がありましたわ。クラリッサと同じ旋律。つまり」
リーナの紫の瞳が、馬車の窓越しにエーデルシュタイン別邸を見つめた。
「エーデルシュタイン家の聖光偽装は、クラリッサだけではなく、フローラにも施されている可能性がありますわね」
馬車が動き出した。帝都の石畳を轍が転がる音が響く。
エーデルシュタイン家の闇は、まだ底が見えない。




