第57話 月が欠ける夜の決意
クレスタフェルデ伯爵邸の書斎には、帝都の地図が広げられていた。
リーナの指が地図の上を滑る。帝都イグナシオンの地下に走る星脈の推定路を、赤い線で書き足していく。封印研究室から持ち出した文書の写しが、机の脇に積まれている。
包囲網が敷かれてから三日が経っていた。
社交界では既にリーナの鑑譜眼を疑う声が広がり始めている。フローラの手回しは素早かった。茶会の席で「鑑譜眼は幻術の一種ではないか」という説を流し、一部の貴族が同調している。
しかしリーナは社交界の噂に耳を傾けてはいなかった。視線は地図に向いていた。
「ここ、ここ、そしてここ」
三つの点を指で押さえる。帝都の封印研究室。辺境グリュンハイムの聖樹。迷宮都市カスカーラの最深部。
「三点の封印が同時に劣化している。文書の記録では、百年前の大崩落の直前も同じパターンだった」
扉が開いた。ルシアンが入ってくる。黒髪が少し乱れている。走ってきたのだろう。
「リーナ。皇帝代理から通達が来た」
「内容は?」
「封印劣化の公式調査を、ヴァレンシュタイン家の管轄に戻すという決定だ。議会多数派が公爵家側についた」
リーナの手が、地図の上で止まった。
「つまり、わたくしたちの調査結果は公式には採用されない、と」
「そうなる。公爵家が議会を押さえている以上、正規ルートでは動けない」
ルシアンが机に手をつき、地図を覗き込んだ。碧眼が三つの赤い点を追っている。
「だからこそ、動く」
リーナが言った。
ルシアンが顔を上げた。
「帝国議会に、封印劣化の報告書を提出しますわ」
「議会に? 正規ルートは封じられたと言ったばかりだ」
「正規ルートではなく、緊急動議ですわ。帝国法典第三章、『帝国の存亡に関わる案件において、いかなる臣民も議会に緊急報告を提出する権利を有する』。二百年前に制定された古い条文ですけれど、一度も改廃されていません」
ルシアンの碧眼が、僅かに見開かれた。
「あの条文をどこで知った」
「封印研究室の文書に引用されていましたわ。百年前のヴァレンシュタイン家の当主が、この条文を恐れて封印研究の情報を隠蔽した記録が残っています。皮肉ですわね。隠蔽の記録が、隠蔽を暴く鍵になるなんて」
* * *
ルシアンは黙って椅子に座った。口調が切り替わった。
「俺は反対しない。だがリスクは理解しているか」
「していますわ」
「ヴァレンシュタイン家を正面から敵に回す。公爵家だけじゃない。派閥全体が動く。エーデルシュタイン家、グリフォンハート家、その傘下の全ての貴族と騎士団。包囲網どころの騒ぎじゃなくなる」
「ええ」
「最悪、命を狙われる」
「それも承知していますわ」
リーナは椅子の背もたれに体を預けた。銀髪が肩から流れ落ちる。紫の瞳が、窓の向こうの帝都の夜景を映している。
「でも、真実を隠し続ければ、大陸が滅びますわ」
声は静かだった。震えてもいない。ただ事実を述べているだけの声。
「封印劣化は加速しています。ヴァレンシュタイン家が管理を続ければ、彼らは劣化を隠し続ける。百年前と同じことを繰り返す。そしてその先にあるのは、第二の大崩落ですわ」
「わかっている」
「わたくしの鑑譜眼は、嘘を暴くためにある」
リーナが立ち上がった。窓際に歩き、帝都の夜を見下ろした。
「婚約を破棄された夜から、わたくしはずっと嘘を聴いてきました。ディートリヒの嘘、フローラの嘘、社交界の嘘。でもそれは序章に過ぎなかった」
振り返った。紫の瞳がルシアンを真っ直ぐ見つめている。
「帝国が百年間ついてきた嘘。それを暴かなければ、わたくしの鑑譜眼に意味がありませんの」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、書斎に響いている。
ルシアンが立ち上がった。長い脚で書斎を横切り、リーナの前に立った。碧眼が、紫の瞳を上から見下ろしている。
「なら、俺が守る」
低い声だった。
「シュヴァルツベルクの名にかけて。議会に立つ時も、公爵家と対峙する時も、俺がお前の隣にいる」
リーナの耳が、微かに赤くなった。
鑑譜眼を使うまでもなかった。ルシアンの声に、嘘の旋律は一音もない。
「……ありがとうございますわ」
「礼はいらない。俺の判断だ」
「それでも、ですわ」
リーナは小さく微笑んだ。
「あなたの旋律が隣にあるだけで、わたくしの耳は澄みますの。婚約破棄の夜、わたくしは一人でしたわ。でも今は違う」
ルシアンの手が、リーナの手に触れた。指先だけ。それ以上は踏み込まない。不器用な男の、不器用な応え方だった。
* * *
報告書の作成は、その夜から始まった。
封印研究室の文書の写し。辺境グリュンハイムでの調査記録。星脈劣化の観測データ。そしてヴァレンシュタイン家の隠蔽工作の証拠。
全てを一つの報告書にまとめなければならない。帝国議会の議員たちが読めるように。鑑譜眼を持たない人間にも、事の重大さが伝わるように。百年の嘘を、紙の上の言葉だけで暴かなければならない。
リーナは机に向かい、羽ペンを走らせた。インクの染みが指先に広がる。ルシアンが隣の椅子で資料を整理し、リーナが必要とする文書を無言で差し出してくる。長い時間を共に過ごした二人だけの呼吸がそこにあった。時折、二人の手が同じ書類に伸び、指先が触れた。どちらも何も言わなかった。
暖炉の薪が崩れた。ルシアンが立ち上がり、新しい薪を足す。炎が勢いを取り戻し、書斎に揺れる影が踊った。
深夜。
リーナがふと顔を上げると、窓の外に月が見えた。
欠けている。
三日月に向かって細くなっていく月。銀白色の光が薄く、帝都の屋根を照らしている。
「月が欠けていますわね」
「ああ」
「満ちる前に欠ける。けれど、いつか満月に戻る」
ルシアンが顔を上げた。リーナの横顔が、欠けた月の光に照らされている。
「今のわたくしたちも同じですわ。包囲網が狭まり、正規ルートは閉ざされ、味方は少ない。欠けている。でも」
リーナが羽ペンを置き、窓に向き直った。
「月は欠けた後に満ちますの。嘘は暴かれた後にしか、真実に変わりませんわ」
ルシアンが立ち上がり、リーナの隣に歩いた。二人で欠けた月を見上げている。
帝都の夜は静かだった。しかしリーナの鑑譜眼には、地の底から微かな不協和音がずっと鳴り続けているのが聴こえていた。星脈の軋み。封印の悲鳴。
この夜、帝国の心臓で一人の伯爵令嬢が決意を固めた。
そしてリーナは知らなかったけれど、同じ月の下、辺境の少女も迷宮都市の少年も、それぞれの決断の時を迎えていた。
欠けた月が、三つの場所を等しく照らしている。




