第56話 公爵の逆鱗
ヴァレンシュタイン公爵邸の書斎は、重厚な樫材の壁に囲まれている。
壁一面の書架には帝国の軍事記録が並び、窓は分厚い緋色の帳で覆われていた。陽光すら拒むこの部屋を、ヴァレンシュタイン家の当主アルベルトは「審問室」と呼んでいた。
扉が開き、従者が蒼白な顔で入ってきた。
「公爵閣下。地下封印研究室の報告が」
「申せ」
「何者かが研究室に侵入した痕跡がございます。警備の記録に——闇属性による隠蔽の痕跡。そして古文書の一部に、複写の形跡が」
アルベルトの手が、机の上で止まった。
書類を持ち上げかけていた指が、そのまま紙面に押しつけられ、羊皮紙が皺を刻んだ。
「——複写だと」
低い声だった。怒号ではない。静かに、地を這うような声。
従者の膝が震えた。公爵に仕えて二十年。この声を聞いた者は皆、同じことを知っている。公爵が最も危険なのは、怒鳴る時ではなく黙る時だ。
「闇属性の隠蔽。シュヴァルツベルクか」
「断定はできませんが——帝都で闇属性をあの精度で使える者は限られております」
「限られる、ではなく一人しかおらん」
アルベルトが立ち上がった。長身の体が書斎の灯りに影を落とす。
「シュヴァルツベルクの次男。そしてあの女だ」
鑑譜師。
婚約破棄された伯爵令嬢。核紋を読む異端の瞳を持つ女。
「ディートリヒを呼べ」
* * *
十分と経たずに、ディートリヒが書斎に現れた。
騎士団長の称号を剥奪されたわけではない——まだ。しかし議会での問責を受けて以降、その歩き方には以前の傲慢さが欠けていた。足音が軽い。自信のない人間の足音だ。
隣にフローラ・エーデルシュタインがいた。銀灰色の髪を結い上げ、翡翠の瞳で室内を一瞥する。この女は呼んでいないのに来る。そしてアルベルトは、それを許していた。エーデルシュタイン家との同盟は、まだ必要だからだ。
「父上、お呼びでしょうか」
「封印研究室に侵入があった」
ディートリヒの顔が強張った。
「研究室に? あそこの警備は」
「闇属性で突破された。複写された文書は——百年前の封印実験記録だ」
書斎の空気が、さらに冷えた。
フローラの翡翠の瞳が細くなった。彼女は状況を理解している。あの文書が外に出れば、ヴァレンシュタイン家だけでなくエーデルシュタイン家の偽聖女工作も連鎖的に露呈する。
「シュヴァルツベルクの次男と、あの鑑譜師の女。間違いない」
アルベルトがディートリヒの目を見据えた。
「お前が捨てた女だ、ディートリヒ。お前が始末しろ」
「始末、とは」
「排除しろと言っている。手段は問わない」
ディートリヒの喉が鳴った。
フローラが一歩前に出た。
「お義父様。少しよろしいでしょうか」
アルベルトの視線がフローラに移った。
「暗殺は下策ですわ」
フローラの声は穏やかだった。まるでお茶の銘柄を選ぶような口調で、彼女は続けた。
「あの女を殺せば、シュヴァルツベルク家の報復は帝都を二分する戦になりかねません。社会的に葬る方が確実ですわ」
「具体的には」
「鑑譜眼の信用を潰します。あの女の力が嘘だと証明すれば、複写された文書にも証拠能力がなくなる。宮廷の貴族たちを使って包囲網を敷きましょう」
フローラが微笑んだ。計算の行き届いた笑みだった。
「女の信用を潰すのは、女が一番得意ですもの」
アルベルトが頷いた。
「やれ。ディートリヒ、お前は宮廷側の根回しだ。フローラ、社交界を使え」
「かしこまりましたわ」
フローラが優雅に一礼した。その翡翠の瞳の奥に、冷たい光が宿っていた。
ディートリヒは黙ったままだった。父と婚約者の間に立ち、どちらにも口を挟めずにいる。かつて舞踏会の大広間で堂々と婚約破棄を宣言した男は、今や自分の書斎でさえ主導権を握れない。
書斎を辞したフローラの足音が廊下に消えた後も、ディートリヒは動かなかった。
「何をしている。さっさと行け」
父の声に背を押されるように、ディートリヒは書斎を出た。廊下の窓から見える帝都の空は、鉛色に曇っていた。
* * *
同じ頃。
クレスタフェルデ伯爵邸の庭園で、リーナは薔薇の手入れをしていた。
初冬の風が銀髪を揺らす。手袋をした指先で枯れた花弁を摘みながら、リーナの紫の瞳は庭園の向こう——帝都の街並みを見つめていた。
瞳が、金色に変わった。
鑑譜眼が、微かな不協和音を拾っている。
庭園の門を見張る衛兵の核紋に、普段はない旋律が混じっていた。緊張。そして——外部からの指示に従っている音。衛兵だけではない。今朝から邸を訪れた商人の核紋にも、使用人を通じて入ってきた手紙を運ぶ使いの核紋にも、同じ種類の旋律がある。
同じ指揮者の棒に従う音。
「包囲網ですわね」
リーナは薔薇の枝を剪定鋏で切った。乾いた音が庭に響く。
背後に足音。ルシアンだった。黒い外套の襟を立て、碧眼が庭園を一巡りしている。
「気づいたか」
「今朝から六人。衛兵に一人、商人に二人、使いに一人、街角の監視に二人。全員の核紋に同じ旋律が聴こえますわ。ヴァレンシュタイン家の命令系統の音」
ルシアンの眉が僅かに上がった。
「六人を一度に聴き分けたのか」
「和声ですわ。同じ不協和音が六通りの声部で鳴っているだけですもの。合唱団の中から一人だけ音を外している歌手を見つけるより、遥かに簡単ですわ」
リーナは剪定鋏を置き、手袋を外した。
「研究室への侵入がばれたのでしょうね。予想よりも早かったけれど、想定の範囲内ですわ」
「どう動く」
「まだ動きませんわ。向こうが包囲網を狭めてくれるのを待ちます」
リーナの唇に、薄い笑みが浮かんだ。
「包囲網が狭まるほど、参加する人間が増える。参加する人間が増えるほど、嘘の旋律は大きくなる。わたくしの鑑譜眼にとっては——むしろ好都合ですの」
ルシアンが腕を組んだ。
「余裕だな」
「余裕があるのではなく、余裕を持たなければ鑑譜眼の精度が落ちますの。焦りは耳を曇らせますから」
風が吹いた。庭園の枯れ葉が舞い上がり、帝都の灰色の空に消えていく。
ルシアンが隣に立った。二人の肩が触れそうな距離。
「俺の影が、公爵邸の動きを追っている。刺客が送られる可能性もある」
「フローラが止めると思いますわ。あの方は暗殺より社会的な手段を好む。計算高い旋律でしたもの」
「お前の読みを信じる。だが護衛は強化する」
「ええ。お願いしますわ」
リーナは庭園の薔薇に目を戻した。冬を前にしても、まだ一輪だけ咲いている深紅の花がある。棘に守られて、風にも負けていない。
包囲網は着実に狭まっている。だがリーナは微笑んだ。狭まるほど、嘘の旋律は大きくなるのだから。




