第55話 嘘のない告白
帰り道は暗かった。
帝都の門をくぐり、石畳の大通りを歩く。街灯の橙色の光が石畳を照らし、二人の影が長く伸びていた。通りにはまだ行き交う人の姿がある。馬車の車輪が石を軋ませ、酒場の窓から笑い声が漏れていた。
ルシアンの口調が「私」に切り替わっていた。周囲に人がいる。公爵家の次男と伯爵令嬢が二人で夜の帝都を歩いている。それだけで噂になる。
「クレスタフェルデ嬢、お疲れでしょう。馬車を呼びますか」
「いえ、もう少し歩きますわ」
社交の仮面。互いに身につけた礼儀作法。
けれどリーナの耳には、数分前に聴いたルシアンの旋律がまだ残っていた。
大通りを外れ、伯爵邸に続く裏路地に入った。街灯が減り、人通りが途絶えた。
ルシアンの足が止まった。
「……リーナ」
名前。口調が切り替わった。
リーナも足を止めた。振り返ると、ルシアンが一歩後ろに立っていた。碧眼が暗い路地の中で、かすかに光っている。
「さっき言いそびれた」
「何をですの」
ルシアンが沈黙した。路地裏の空気が冷たかった。建物の壁に挟まれた狭い空に、星がいくつか覗いている。遠くで犬が吠えた。石畳に溜まった水たまりが、星明かりを映して鈍く光っていた。
沈黙が長かった。ルシアンの口元が何度か動いたが、言葉にならなかった。
リーナは待った。鑑譜眼を使わなかった。ルシアンが自分の言葉で語るのを、ただ待った。
「使えると思って近づいた」
低い声だった。
「鑑譜眼が必要だった。シュヴァルツベルクの交易を守るために。だからお前を道具にするつもりで、あの日、クレスタフェルデ伯爵邸を訪ねた」
「知っていますわ」
「途中で変わった」
ルシアンの碧眼が、リーナの紫の瞳を捉えた。
「いつからかは、わからない。帝都の闇市でお前の手を引いた時か。バルコニーで手が触れた時か。それとも、もっと前だったのかもしれない」
リーナの心臓が、速くなった。鑑譜眼は使っていない。けれど、自分の心臓が打つ拍動が、いつもより大きく聴こえる。
「使えると思って近づいた。だが——お前を手放す気は、もうない」
言葉が、路地裏の冷たい空気に落ちた。
飾りのない、むき出しの言葉だった。詩的な表現も、洗練された口説き文句もない。ルシアン・シュヴァルツベルクという男の、不器用な本心。
リーナの瞳が、金色に変わった。
鑑譜眼が発動した。意図的に。ルシアンの核紋を聴くために。
旋律が流れ込んだ。
* * *
今まで聴いた中で、最も美しい和音だった。
闇属性の低い旋律は変わらない。深く、暗い音色。けれどその暗さの中に、先ほど聴いた澄んだ一音がもう一音と重なっていた。二つの音が完全な調和を成し、闇の旋律の中に光のような和音を作り出している。
不協和音は、どこにもなかった。
利用の意図は消えていた。計算も、警戒も。残っているのは、まっすぐな嘘のない感情だけ。
バルコニーの夜に聴いた完全な和音。あの時よりもさらに澄んでいる。あの時はまだ、ルシアンの中に「影」としての秘密が残っていた。今は全てを明かした後の、何も隠していない旋律。
リーナの目の奥が、熱くなった。
「嘘が見えるわたくしには——あなたの本心も見えていますの」
声が震えた。隠せなかった。
「ずっと前から」
ルシアンの碧眼が見開かれた。
「見えていた、のか」
「ええ。バルコニーの夜から。いいえ、もしかしたらもっと前から。あなたの旋律に嘘がないことは、最初から聴こえていましたわ」
リーナの金色の瞳が、ルシアンの碧眼を見上げた。路地裏の暗がりの中で、二つの瞳だけが光っていた。金色と碧。
「鑑譜眼は嘘を暴く力。でも、嘘のない旋律を聴いた時が、一番心が震えるのですわ。あなたの旋律は、いつだって震えさせてくれましたの」
耳が赤い。頬も。暗い路地裏がそれを隠してくれている、と思いたかった。けれどルシアンの碧眼は闇を見通す。隠せていないことは、わかっていた。
ルシアンが一歩、近づいた。
リーナは動かなかった。
「お前は、面倒な女だ」
「また、それですの」
「今度は違う意味だ」
ルシアンの手が、リーナの手に触れた。
指が絡まった。バルコニーの夜とは違う。手すりの上で重なるのではなく、互いの指を確かに握り合っている。ルシアンの手は大きく、硬く、温かかった。リーナの手は細く、冷たく、微かに震えていた。
「手が冷たいな」
「……緊張しているのですわ。こういうことには、慣れていませんもの」
「俺もだ」
短い言葉だった。けれどその声に含まれた旋律を、リーナの鑑譜眼は完璧に聴き取っていた。嘘のない、不器用な本音。
リーナは握り返した。ルシアンの指を、自分の指で包むように。
「わたくしも——あなたを手放す気はありませんわ」
小さな声だった。
ルシアンの指がリーナの手を強く握った。強すぎず、けれど離さないという意志を持った握り方。
リーナの鑑譜眼が、二つの旋律を同時に聴いた。
自分の核紋が奏でる旋律。鑑譜師の令嬢の、嘘を暴く力を持つ女の旋律。
そしてルシアンの核紋が奏でる旋律。帝国の影の、闇属性を持つ男の旋律。
二つの旋律が、重なった。
不協和音は、どこにもなかった。
嘘は、どこにもなかった。
* * *
鑑譜眼が紫に戻った。
けれど手は繋いだままだった。
「ルシアン」
「なんだ」
「明日から、大変なことになりますわ。議会に証拠を出せば、ヴァレンシュタイン家は全力で潰しに来る」
「ああ」
「嵐が来ますわね」
「来るだろうな」
リーナは握り合った手を見下ろした。暗い路地裏で、二人の手だけが白く浮かんでいた。
「でも——嵐の中でも、この旋律だけは変わらないと信じていますわ」
ルシアンは答えなかった。代わりに、繋いだ手を少しだけ引いた。歩き出す合図。
二人は伯爵邸に向かって歩いた。手を繋いだまま。裏路地の暗がりの中で、誰にも見られることなく。
伯爵邸の門が見えた時、ルシアンの手が離れた。口調が切り替わる。
「明日の議会の準備を確認しましょう、クレスタフェルデ嬢」
「ええ、お願いいたしますわ、ルシアン様」
社交の仮面。完璧な令嬢と冷血公子。
けれどリーナの右手は、まだルシアンの指の温度を覚えていた。あのバルコニーの夜に覚えた温度よりも、ずっと確かな熱。
門をくぐる直前、リーナは振り返った。帝都の空に星が瞬いている。嵐の気配は、まだない。けれど、リーナの鑑譜眼は知っていた。
握り合った手の中で、二つの旋律が重なっていた。
けれど——嵐は、まだ始まったばかりだった。




