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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第54話 ルシアンの秘密

封印研究室からの証拠を整理し終えた翌日の夕暮れ。


 ルシアンがリーナを伯爵邸の外に連れ出した。


「散歩ですの?」


「少し歩く」


 帝都の外壁沿いに、石畳の小道が続いている。城壁の外は麦畑で、刈り入れ前の穂が夕日に金色に染まっていた。城壁の上から見張りの兵が二人、遠くで煙草の煙を上げている。


 人通りはない。


 ルシアンの口調は、伯爵邸を出た時から「俺」だった。二人きりの道。夕日が二人の影を長く引いていた。


「話がある」


「ええ」


「証拠の件じゃない。俺自身のことだ」


 リーナは足を止めなかった。ルシアンの横を歩きながら、ちらりと横顔を見た。碧眼は正面を向いている。顎のラインが、いつもより硬い。


「聞きますわ」


「鑑譜眼で聴いてもいい」


「使いませんわ。あなたが話してくださるなら、わたくしの耳で聴きます」


 ルシアンが一瞬だけ足を緩めた。それから、また同じ速度で歩き出した。


「シュヴァルツベルク家は、帝国の財務を握る家だ。表では交易路を管理し、商人たちを束ね、帝国の経済を支えている。お前も知っての通りだ」


「ええ」


「裏がある」


 ルシアンの声が、半音だけ低くなった。


「シュヴァルツベルク家には『影』と呼ばれる役割がある。帝国の暗部を担う者。情報操作、暗殺指令の遂行、敵対勢力の排除。帝国が百年間安定を保てたのは、表の政治力だけじゃない。裏で、汚い仕事をする人間がいたからだ」


 麦畑の風が、二人の間を吹き抜けた。穂が波打ち、金色の海のようにうねった。


「俺がその『影』だ」


 リーナは黙って歩いた。ルシアンの横顔を見ない。前を向いたまま、彼の声だけを聴いた。


「長男が家を継ぎ、次男の俺は闇属性を買われて裏に回された。十五の時に最初の任務を受けた。帝国に敵対する商人の暗殺だった」


 十五。リーナが宮廷で婚約者の隣に立ち、退屈な夜会の微笑みを練習していた頃。同じ帝都の夜に、この男は人の命を奪っていた。


 ルシアンの声に感情の色がなかった。事実を報告するような口調。けれどリーナの耳は、鑑譜眼を使わなくても、その声の奥に微かな震えを捉えていた。


 リーナは唇を引き結んだ。


「殺したのか。直接か」


「ああ。闇の力で心臓を止めた。痛みは感じさせなかった。それが唯一の……いや、言い訳だな」


 石畳の小道が、城壁の角を曲がった。夕日が城壁の影に隠れ、二人の周囲が急に暗くなった。


「それから七年。帝国の影として、数え切れない仕事をした。暗殺。情報操作。脅迫。ヴァレンシュタイン家の暗躍を監視し、時には彼らの汚れ仕事を代行した」


「代行?」


「ヴァレンシュタイン家は自分の手を汚さない。シュヴァルツベルク家に汚れ仕事を押しつける。そのための取引が存在した。封印研究の一部情報と引き換えに、暗殺を引き受ける」


 ルシアンが立ち止まった。


 城壁の石に背を預け、リーナを見た。碧眼が、夕闇の中で暗く光っていた。


「お前に隠し事をするのは——嘘が見える相手に嘘をつくのと同じだ。もう、やめにする」


 リーナは一歩、近づいた。


「なぜ今ですの」


「封印の証拠を議会に出す前に、お前に知っておいてほしかった。シュヴァルツベルク家も——清い家じゃない。俺の手も、血で汚れている」


 ルシアンの指が、無意識に右手を握りしめた。闇属性の力で心臓を止めた、その手。


「お前が嫌悪するなら、それでいい。だが、隠したまま隣に立つのは」


「ルシアン」


 リーナの声が、静かに遮った。


 紫の瞳がルシアンの碧眼を真っ直ぐに見つめていた。夕闇が二人を包んでいる。城壁の石の冷たさが背中に伝わる距離。


「鑑譜眼を使わせていただきますわ」


「ああ」


 リーナの瞳が金色に変わった。


 ルシアンの核紋から旋律が流れ込んだ。


* * *


 闇属性の旋律は、深かった。


 海の底のような、光の届かない場所で鳴り響く低音。短調の旋律が幾重にも重なり、暗い層をなしている。


 リーナはその旋律を丁寧に聴いた。


 最も外側の層。帝国の「影」としての経歴。暗殺、情報操作、脅迫。その旋律には確かに血の匂いがあった。冷たく、硬い旋律。人の命を奪った者だけが持つ、取り返しのつかない重さ。


 けれど。


 その奥に、もう一つの層があった。


 暗い旋律の内側で、微かに、しかし確かに鳴っている一音。澄んだ音色。嘘のない、純粋な旋律。


 それは後悔ではなかった。後悔なら不協和音として聴こえるはずだ。


 そうではない。この一音は、自分の罪を正確に知り、それでも前を向いている人間だけが持つ旋律だった。言い訳をしない。美化もしない。ただ、事実として己の過去を受け入れた上で、まだ何かを守ろうとしている。


 リーナの金色の瞳が揺れた。


「あなたの旋律の奥に——嘘は一つもありませんわ」


 声が震えた。


「暗い旋律はあります。血の匂いも。でも——その奥に澄んだ一音が鳴っているのが、聴こえますの。あなたは自分の罪を知っている。知った上で、まだ誰かを守ろうとしている」


 リーナは鑑譜眼を切った。瞳が紫に戻る。


「それは嫌悪の対象ではありませんわ。ルシアン」


 名前を呼んだ。敬称なしで。


「わたくしの鑑譜眼は嘘を暴く力。でも同時に、真実を見る力でもありますの。あなたの核紋が奏でる真実は、暗いけれど嘘がない。わたくしにとって、それが何より大切ですわ」


 ルシアンの碧眼が、揺れた。


 リーナはその揺れを見た。


 冷血公子と呼ばれた男。帝国の影として暗躍し、感情を殺して生きてきた男。その碧眼が、ほんの一瞬だけ脆く光った。


 この男が揺れるのを、リーナは初めて見た。


 夕闇が完全に落ちた。城壁の向こうで、帝都の街灯が一つずつ灯り始めた。麦畑の穂が風に揺れ、夜の虫の声がどこか遠くで鳴いている。帝都の喧騒から切り離された城壁沿いの小道に、二人の呼吸だけが残った。


 沈黙が降りた。


 ルシアンが視線を逸らした。城壁の石を見つめ、低い声で呟いた。


「……面倒な女だ」


「褒め言葉として受け取りますわ」


「いつもそう返すな」


「いつもそう言ってくださるからですわ」


 リーナの唇が微かに綻んだ。耳の先が赤い。夕闇がそれを隠してくれていた。


 ルシアンが壁から背を離し、歩き出した。帝都の門に向かう道。リーナがその半歩後ろを歩いた。


 二人の間に言葉はなかった。


 けれどリーナの耳には、鑑譜眼を切ったあとも、ルシアンの旋律がかすかに聴こえ続けていた。闇の奥の澄んだ一音が、夜風に乗って響いている。


 ルシアンの目が揺れた。この男が揺れるのを、リーナは初めて見た。


 その記憶が、胸の奥で静かに温かかった。

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