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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第53話 大崩落は天災にあらず

三度目の潜入だった。


 ルシアンの闇属性が回廊の星脈灯を沈黙させ、衛兵の視界を奪う。リーナは息を殺して石畳を踏み、封印研究室の扉をくぐった。もう手順は身体に染み込んでいた。


 今夜で、全てを終わらせる。


「残りの文書は七枚」


 リーナは棚から文書の束を取り出し、机の上に並べた。ルシアンが扉の前に立ち、闇の帳を維持したまま腕を組んでいる。


「時間は」


「二十分が限界だ。三度目ともなれば、巡回の間隔を変えてくるかもしれん」


「十五分で終わらせますわ」


 瞳が金色に変わった。


 もう暗号の構造は把握している。ヴァレンシュタイン家当主の核紋の残響を鍵にして、旋律を展開する。一枚目の文書がほどけた。


 リーナは読み上げながら、同時にルシアンが広げた白紙に要点を書き留めていった。ルシアンの筆が紙の上を走る音が、静かな研究室に響いた。


「第五段階。封印外殻の溶解が臨界を超え、星脈の流出量が制御不能に。当主は実験の一時中断を決定。しかし流出は止まらなかった。一度溶かした外殻は、自然には修復されなかった」


 二枚目。


「第六段階。流出を抑えるため、封印の補強を試みる。しかし補強に使用した魔力が、かえって流出を加速させた。当主は帝都から離れた聖域山脈の本体封印にまで影響が及び始めていることに気づく」


 三枚目の文書で、暗号の旋律が崩れた。


 書いた人間の核紋の残響が、恐慌で歪んでいた。インクの染みが広がっている箇所があり、書いている途中で手が震えていたことがわかった。


「第七段階。もう段階とは呼べませんわ。制御の放棄。星脈の流出が連鎖し、聖域山脈を中心に大陸全土の星脈が暴走。帝国東部三州と連合の二国が壊滅」


 リーナの声が固くなった。


「死者は——百万を超えると推計。当主はこの数字を記録しながら、保身の計算をしていますわ。核紋の残響に、怯えと打算が同時に鳴っている。『これを知られれば、家が滅ぶ』」


 四枚目。


「大聖女アリーシア・ローゼンクロイツが星属性の力を以て封印を再施術。代償として自らの命を失う。ヴァレンシュタイン家当主は——アリーシアの犠牲を利用して、全てを天災として発表する」


 リーナの指が、文書の上で止まった。


 金色の瞳が、静かに燃えていた。


「アリーシアは知っていた。大崩落の原因が人為的であることを。けれど封印を直すことを優先した。告発よりも、百万の命が失われたあとに残された命を守ることを選んだ」


 五枚目。六枚目。隠蔽工作の詳細が記されていた。証拠の隠滅。関係者の口封じ。帝国議会への虚偽報告。全てが組織的に、冷徹に実行されていた。


 七枚目——最後の文書に手を伸ばした。


 鑑譜眼が捉えた旋律が、変わった。


 焦燥も打算も消え、代わりに硬い決意の旋律が鳴っていた。当主が最後に書き記した言葉。


「『この記録は封じる。しかし破棄はしない。いつか後の世が裁くために。ヴァレンシュタインの名の下に行われたこの罪を——後世に託す』」


 リーナは文書から手を離した。金色の瞳が紫に戻る。こめかみが脈打ち、視界の端が霞んでいた。


「最後の一枚だけ、嘘がありませんでしたわ」


 ルシアンが白紙の束を折り畳んだ。全ての要点が書き写されている。


「後世に託す、か。百年かかったな」


「ええ。百年」


* * *


 帰路は、来た時と同じ闇の中だった。


 ルシアンの闇が回廊を包み、衛兵の目を避けて地上へ出る。地下水路の出口は帝都の外壁沿いにあった。錆びた鉄格子を押し開けると、帝都の夜空が頭上に広がった。リーナは深く息を吸った。地下の淀んだ空気とは違う、冷たい夜の風が肺を満たした。


 星が出ていた。雲のない冬の夜空に、星座が明瞭に浮かんでいる。百年前の大崩落の夜も、この星空は変わらずにあったのだろう。けれど大地は裂け、百万の命が消えた。


 路地裏を歩きながら、リーナの手が震えていた。


 ルシアンが気づいた。


「怪我か」


「いいえ」


 リーナは足を止めた。石畳の路地。頭上には星が見えている。帝都の街灯が遠くで揺れていた。


「百万人ですわ」


 声が掠れた。


「百万人が死んだ。天災ではなく、ヴァレンシュタイン家の実験のせいで。それを百年間隠し続けた」


 手が震えている。文書を書き写した白紙の束を、リーナの指が強く握りしめていた。


「帝国東部の三つの州。連合の二つの国。そこに暮らしていた人々。家族がいて、仕事があって、日常があった。その全てが——一つの家の野望のために」


 怒りではなかった。


 リーナは自分の感情を正確に理解していた。鑑譜眼は他人の嘘を暴く力だが、それは同時に、嘘の裏にある真実の重さを知る力でもある。


 百年前の当主の核紋に刻まれた怯えと打算。保身のために百万の死を隠蔽した旋律。そしてアリーシアが命を捧げてまで封印を直した、あの透き通った旋律。


 全てを聴いてしまった。


 それが、重かった。


「泣くな」


 ルシアンの声が、不器用に響いた。


「泣いていませんわ」


「手が震えてる」


「……これは怒りではありませんの」


 リーナは白紙の束を胸に抱いた。


「百年前に犠牲になった方々への——哀悼ですわ」


 ルシアンは何も言わなかった。代わりに、リーナの肩を自分の外套で包んだ。腕を回すでもなく、ただ外套をかけただけ。いつものぶっきらぼうな優しさ。


 リーナは外套の温もりの中で、呼吸を整えた。ルシアンの外套には微かに革と鉄の匂いが染みついている。影の任務で身につけてきた匂い。けれどリーナにとっては、もう安心の匂いだった。


 手の震えが少しずつ収まっていく。


「ルシアン」


「ああ」


「証拠は揃いましたわ。星属性の研究記録。封印を弱めた実験の経緯。大崩落が人災であったことの証拠。百年間の隠蔽工作の全容」


 リーナは顔を上げた。紫の瞳が、街灯の光を映して静かに光っていた。


「あとは——これを世に出す覚悟があるかどうか」


 ルシアンの碧眼が、リーナの瞳を見つめ返した。


「覚悟の話なら、お前に訊くまでもないだろう」


「ええ。でも確認しておきたいのですわ。あなたにも——覚悟があるかどうか」


 ルシアンは一拍、沈黙した。


 路地裏の冷たい空気の中で、二人の呼気が白く広がった。遠くで帝都の鐘が鳴っている。深夜零時を告げる鐘。


「シュヴァルツベルクの名にかけてと言っただろう」


「……ええ」


「二度は言わない。行くぞ」


 ルシアンが歩き出した。リーナは外套を肩に引き寄せ、その背を追った。


 白紙の束が、胸の中で確かな重みを持っていた。百年前の罪と、百年前の祈りが、文字となってそこに刻まれている。


 証拠は揃った。


 あとは——覚悟を、行動に変えるだけだった。

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