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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第52話 100年前の嘘

翌夜。リーナは封印研究室から持ち出した文書を、クレスタフェルデ伯爵邸の書斎に広げていた。


 窓のカーテンは閉め切ってある。星脈灯を最小にまで絞り、机の上には蝋燭が一本だけ灯っている。文書の羊皮紙が蝋の橙色に揺れていた。


 ルシアンが扉の前に立ち、腕を組んでいた。護衛であり、見張りであり、立会人だ。万一ヴァレンシュタイン家の手の者が伯爵邸を嗅ぎ回っていても、ルシアンの闇属性が気配を遮断する。


「始めますわ」


 リーナは椅子に深く腰掛け、一枚目の文書に両手を置いた。


 瞳が金色に変わった。


 昨夜、研究室で触れた時と同じ旋律が蘇る。ヴァレンシュタイン家当主の核紋の残響を鍵にして、暗号が楽譜のように展開する。昨夜は時間が足りなかった。今夜は、全てを聴き取る。


 暗号の旋律を追いながら、リーナは文書を一枚ずつ読み進めた。


 星属性の研究記録。封印の構造分析。星脈エネルギーの兵器転用計画。文書は百年前の当主の筆跡で、淡々と、しかし確実に記録されていた。


「第三段階の実験記録ですわ。封印の外殻を部分的に溶解し、内部の星脈エネルギーを直接抽出する試み。初期の抽出量は微量で、制御可能だった」


 リーナの指が次の文書に移った。


「第四段階。抽出範囲を拡大。制御に要する魔力が急激に増大し」


 旋律が乱れた。


 暗号の旋律が、不協和音に変わった。文書を書いた人間の核紋の残響に、焦りと怯えの色が混じっている。百年前のヴァレンシュタイン家当主が、この段階で何かに気づいた。


「制御不能の予兆を、書いた本人は感じていましたわ。けれど実験を止めなかった。旋律に保身の音が混じっていますの。『ここで止めれば、全てが無駄になる』という焦り」


 ルシアンが壁から背を離した。


「それが大崩落の引き金か」


「ここまでは序章ですわ。本題はここからですの」


 リーナは六枚目の文書を手に取った。昨夜、鑑譜眼が白銀に閃いた文書。


 指先が羊皮紙に触れた瞬間、旋律が変わった。


 ヴァレンシュタイン家当主の核紋の残響が後退し、別の旋律が前面に浮かび上がった。澄んだ、高い旋律。泉の底から湧き上がるような透明な音色。


 リーナの呼吸が止まった。


 映像が、流れ込んできた。


* * *


 暗い部屋だった。


 石造りの壁。高い天井。窓から差し込む月光が、一人の女性の横顔を照らしている。


 銀色の長い髪。白い肌。顔立ちは若いが、瞳の奥に底知れない深さがあった。その瞳は紫でも金でもなく、白銀に光っている。


 大聖女アリーシア。


 映像の中のアリーシアは、一枚の羊皮紙を前にして座っていた。手元で何かを書いている。いや、書いているのではない。自分の核紋の旋律を、文書に刻み込んでいる。


 唇が動いた。


 声は聴こえない。鑑譜眼が捉えているのは旋律だけだ。けれど唇の動きから、言葉の断片が読み取れた。


 後継者が来る。


 嘘を見抜く力を持つ者が。


 映像が揺れた。アリーシアの核紋から溢れる旋律が強くなり、リーナの鑑譜眼を圧迫する。


 映像が切り替わった。


 宮廷の広間。大勢の貴族たちが行き交う中に、一人の少女が立っていた。銀色の髪。紫の瞳。華やかな場に馴染めず、柱の陰で所在なげに立っている。


 リーナの心臓が跳ねた。


 わたしだ。


 アリーシアが視た映像——百年先の後継者の姿。嘘を見抜く力を持つ者が宮廷で一人立っている映像。それは、リーナ自身だった。


 映像が溶けていく。最後に、アリーシアの横顔が戻った。月光に照らされた白銀の瞳。唇が、微かに弧を描いた。


 笑っていた。


* * *


 リーナの手が、文書の上で震えていた。


 金色の瞳から涙が一粒こぼれ、羊皮紙の上に落ちた。


「この旋律……百年前の女性の声ですわ。震えている。でも最後に、微かに笑っていますの」


 ルシアンがリーナの傍に来た。何も言わず、肩に手を置いた。


「アリーシアは知っていましたわ。百年後に、鑑譜眼を持つ者が来ることを。だから——自分の記憶を文書に封じた。ヴァレンシュタイン家の暗号の中に隠して」


 リーナは目元を拭い、文書の続きに視線を落とした。鑑譜眼はまだ発動している。旋律はまだ続いている。


 アリーシアが刻んだ旋律の奥から、もう一つの情報が浮かび上がった。


「三つの記憶がある」


 リーナは声に出して読んだ。


「『この記憶は三つに分かたれている。一つはここに。一つは辺境の聖樹に。一つは東の迷宮に。三つが揃えば——封印の真の構造が明らかになる』」


 同時に、鑑譜眼が別方向の旋律を捉えた。


 東。


 カスカーラの方角から、かすかな共鳴が届いた。アリーシアの旋律に呼応するように、遠い東の果てから旋律が脈動している。


「誰かが——この力に呼応していますわ」


 リーナは東を向いた。書斎の壁が視界を遮っているのに、鑑譜眼は壁の向こうの旋律を感じている。カスカーラの迷宮都市。あの不思議な核紋を持つ少年がいる街。荒々しくて空のようで空ではない、あの旋律の持ち主。


 そして南を向いた。グリュンハイムの辺境。大地を歌わせる力を持つ少女がいる場所。透明で、どこまでも深い星の旋律。


「三つの記憶。三つの場所」


 リーナの金色の瞳が、蝋燭の光を映して揺れた。


「アリーシアは——三人の後継者を予見していた。嘘を見抜く者、大地を癒す者、そして核紋を喰らう者。百年後に三人が揃うことを信じて、記憶を三つに分けた」


 ルシアンの手がリーナの肩から離れた。


「ヴァレンシュタイン家は知っていたのか。アリーシアの記憶が隠されていることを」


「いいえ。おそらく知らなかった。暗号に隠した上に、さらにアリーシア自身が旋律で封じていますもの。鑑譜眼がなければ——百年経っても誰にも読めませんわ」


 リーナは文書を丁寧に折り畳み、懐に仕舞った。


 こめかみの痛みが鈍く脈打っている。鑑譜眼の長時間使用。けれど、痛みなど構っていられなかった。


「ルシアン」


「ああ」


「ヴァレンシュタイン家が百年間隠し続けた真実。大崩落の本当の原因。そしてアリーシアが百年後に託した記憶」


 リーナは立ち上がった。蝋燭の炎が揺れ、書斎の壁に長い影を落とした。


「全てが繋がり始めていますわ。この文書に記された星属性の研究記録が——大崩落の引き金を引いた証拠。次の文書に、実験が制御を失った経緯が記されているはず」


 リーナの紫の瞳が、暗い書斎の中で静かに光った。


「三つの記憶。三つの場所。そして——ヴァレンシュタイン家が百年間隠し続けた、たった一つの真実」


 蝋燭の芯が爆ぜた。橙色の光が揺らぎ、リーナの瞳が一瞬だけ金色に閃いた。


 東からの共鳴が、まだ微かに鳴り続けていた。

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