第51話 帝都の地下
帝都イグナシオンの地下は、闇が呼吸していた。
壁面に埋め込まれた星脈灯が青白い光を放っているが、数歩先までしか届かない。リーナの革靴が石畳を踏むたび、乾いた足音が反響した。
「ここから先は、ヴァレンシュタイン家の管理区画だ」
ルシアンの声は低く抑えられていた。口調は「俺」。二人きりの地下通路に、他の人間の気配はない。
「帝都の建造時に掘られた旧水路を、ヴァレンシュタイン家が百年前に接収した。表向きは防災用の備蓄庫。だが実態は」
「封印研究室、ですわね」
リーナは壁面の星脈灯に指先を添えた。鑑譜眼は使っていない。まだ、使うべきではない。
「警備は」
「二箇所。地上からの階段口に衛兵が三人、研究室の扉前に二人。だが」
ルシアンの碧眼が、闇の中で光った。
「俺の領分だ」
彼が右手を持ち上げると、闇が揺れた。
回廊の暗がりが水面のようにさざめき、ルシアンの影から黒い靄が這い出した。
「三十秒だ。衛兵の視界が曇る。その間に通り抜ける」
「影の帳、ですのね」
「名前などない。ただの闇だ」
ルシアンの闇が広がった。星脈灯の青白い光が遮られ、回廊が完全な暗闇に沈んだ。リーナの手をルシアンの指が掴む。硬い指。剣だこの感触。あの夜のバルコニーで触れた手と同じだ。
「目を開けていろ。俺が導く」
リーナは頷いた。闇の中を、ルシアンの手に引かれて歩く。足音を殺し、呼吸を浅くする。前方で衛兵が咳き込む音がした。星脈灯が明滅し、視界を覆う闇に衛兵たちが動揺している気配がある。
すり抜けた。
十歩、二十歩。衛兵の声が遠ざかり、回廊が再び静寂を取り戻した。
ルシアンの手が離れた。
「着いたぞ」
* * *
封印研究室の扉は、重い鉄製だった。
表面に刻まれた紋章がヴァレンシュタイン家の鷲を象っている。鍵穴は三つ。通常なら鍵なしには開かない。
ルシアンが扉に手をかざすと、闇が鍵穴に染み込んだ。内部の機構が軋む音がして、三つの錠前が同時に外れた。
「便利な力ですわね」
「禁忌の力だ。こういう時くらいしか使い道がない」
「わたくしの鑑譜眼も、似たようなものですわ」
扉が開いた。
埃の匂いが流れ出した。百年分の埃と、古い羊皮紙の乾いた匂い。星脈灯が弱々しく灯り、室内を照らしている。
リーナは息を呑んだ。
壁面の棚には大量の文書が詰め込まれ、中央の長机には地図や星脈の図面が広げられたまま放置されている。埃の積もり方から見て、最近出入りした形跡はない。
「百年前の記録が、そのまま残っていますわ」
リーナは棚に近づいた。羊皮紙の束を手に取る。古い帝国語で書かれた文字の上に、さらに別のインクで暗号が重ねられていた。二重の記述。表面の文章は当たり障りのない研究報告だが、暗号の部分は通常の読解では意味を成さない。
「暗号か」
「ええ。通常の目には読めませんわ」
リーナは羊皮紙を机の上に広げ、両手を添えた。
目を閉じる。
そして、開いた。
瞳が紫から金色に変わった。
鑑譜眼が発動した瞬間、羊皮紙の上のインクが震えた。暗号の文字列から旋律が立ち上がる。耳に聴こえる音ではない。核紋を通して脳に直接響く、鑑譜眼だけが捉えられる旋律。
低い、低い旋律だった。
百年の沈黙に閉じ込められていた音が、鑑譜眼の光に照らされて目を覚ましたように脈動している。
「聴こえますわ」
リーナの声が震えた。
「この文書の暗号は——文字の配置ではありませんの。インクに混ぜられた星脈の残滓が、書いた人間の核紋と共鳴する構造になっている。文書そのものが楽譜。書いた人間の核紋の残響が、暗号の鍵になっていますわ」
ルシアンが一歩近づいた。
「つまり、書いた人間の核紋を知らなければ読めない暗号だった」
「ええ。百年前のヴァレンシュタイン家当主の核紋。もう誰にも再現できないはず。でも」
リーナの金色の瞳が、文書の上で揺れた。
「わたくしの鑑譜眼は——残響を聴けますわ」
インクに封じられた核紋の残響。書いた人間がとうの昔に死んでいても、その核紋の痕跡は文書に宿っている。鑑譜眼の覚醒が、その痕跡を旋律として蘇らせた。
暗号が、ほどけていく。
文書の表面に重ねられた暗号のインクが、鑑譜眼の前で楽譜のように展開した。一行、二行。三行目で旋律が明瞭になった。
リーナは声に出して読んだ。
「『星属性の研究は、予定通り第三段階に移行した。封印の構造を部分的に解除し、星脈の直接観測に成功。しかし解除範囲が想定を超え、星脈の流出が——』」
そこで、旋律が途切れた。
リーナは次の文書を手に取った。また別の旋律。別の暗号構造。しかし鑑譜眼は一度読み取った残響のパターンを記憶している。二枚目の解読は、一枚目より速かった。
「リーナ」
ルシアンの声が鋭くなった。
「あまり長くは保たない。闇の帳は、俺の集中力に依存する。衛兵が正気に戻れば、巡回が始まる」
「わかっていますわ」
リーナは三枚目の文書に手を伸ばした。金色の瞳が文書の上を走る。こめかみの奥に鈍い痛みが芽生え始めていた。鑑譜眼の長時間使用の代償。けれど手を止めるわけにはいかない。
四枚目。五枚目。
旋律が次第に明瞭になっていく。断片的な記述が一つの物語を描き始めた。百年前のヴァレンシュタイン家が行った星属性の研究。封印への干渉実験。そして——
六枚目の文書に触れた瞬間、鑑譜眼が金色から白銀に閃いた。
リーナの全身が震えた。
「——これは」
文書の旋律が変わった。ヴァレンシュタイン家当主の核紋の残響ではない。もっと古い。もっと深い。百年前よりさらに奥から聴こえてくる、透き通った旋律。
大聖女アリーシアの残響に似ている。グリュンハイムで、ミーリアの共鳴に触れた時に微かに聴こえた——あの旋律。
「ルシアン」
リーナの声は、もう隠せないほど震えていた。
「この文書の奥に——もう一つの旋律があります。ヴァレンシュタイン家のものではない。もっと古い、もっと澄んだ音。誰かが——百年前に、この文書の中に何かを隠した」
ルシアンの碧眼が細まった。
「アリーシアか」
「まだわかりませんわ。でも」
リーナは文書を胸に抱いた。金色の瞳が、埃っぽい研究室の薄闇の中で燃えるように光っている。
「この文書は歌い始めましたの。百年の沈黙を破って」
その旋律は、ヴァレンシュタインの名を告げていた。




