第50話 残響の先へ
グリュンハイムを発つ前日の朝。
リーナは薬草園を訪れた。三度目の訪問だった。フェリクスはもう門前で追い返すことはしない。「長居するな」と短く言っただけで、通してくれた。
「リーナ様、おはようございます」
ミーリアが駆け寄ってきた。エプロンに土がついているのはいつものことだ。その笑顔には曇りがない。
「おはようございます、ミーリアさん。今日は少し、お力を見せていただけないかしら」
「わたしの力、ですか?」
「ええ。大地を癒す時、どのようなことをしていらっしゃるのか。見せていただけるとありがたいのですけれど」
ミーリアは少し迷った様子だったが、すぐに頷いた。
「では、あの畑で。先週まで枯れかけていた薬草がありまして。毎日手当てしているのですけれど」
* * *
ミーリアが畑の土に手を当てた。
膝をつき、両掌を地面に押し当てる。亜麻色の髪が垂れて顔を隠した。
リーナは少し離れた位置で、鑑譜眼を発動した。瞳が金色に変わる。
ミーリアの核紋から、旋律が溢れ始めた。
透明な音。星脈の脈動と完全に同期し、大地の奥深くまで染み込んでいく。枯れかけた薬草の根元で、土壌が微かに光った。星脈のエネルギーがミーリアの手を通じて流れ込み、大地を潤している。
リーナの鑑譜眼は、その旋律の一音一音を聴き取っていた。
光属性の聖術とは根本的に異なる。光属性は外から力を注ぎ込む。ミーリアの力は違う。大地の中に眠っている星脈の流れを起こし、本来あるべき姿に戻している。治すのではなく、目覚めさせるのだ。
「美しい旋律ですわ」
リーナの声は、知らず小さくなっていた。
その時だった。
ミーリアの旋律に引き寄せられるように、別の音が聴こえた。
微かで、遠く、消えかけの残響。しかし確かに聴こえた。
リーナの全身に鳥肌が立った。
「この旋律は——」
百年前の音だった。
封印遺構の壁面で聴いた、大聖女アリーシアの封印術の旋律と同じ音色。しかし壁に刻まれた痕跡よりも、遥かに生々しい。
ミーリアの不思議な力が、大地の奥に眠る百年前の旋律を呼び起こしている。
「リーナ様? どうなさいました?」
ミーリアが手を止め、振り返った。リーナの顔色が変わっているのに気づいたのだろう。
「……いえ。少し驚いただけですわ」
リーナは額に手を当てた。こめかみがずきずきと痛む。鑑譜眼の限界が近い。しかし今聴こえた旋律を手放すわけにはいかなかった。
「ミーリアさん、もう少しだけ続けていただけますか」
「はい、もちろんです。でも、リーナ様のお顔が——」
「大丈夫ですわ。お気になさらず」
ミーリアが再び土に手を当てた。
ミーリアの癒しの力が再び動き始める。リーナは鑑譜眼を全開にした。瞳の金色が、朝日よりも眩しく燃えている。
聴こえる。
百年前の旋律の断片。アリーシアの声——いや、旋律だ。封印を施した時の核紋の響き。震えながらも強く、最後の力を振り絞って大地に刻んだ調べ。
その旋律に、一つだけ、言葉が乗っていた。
言葉ではない。感情だ。託すものがある、という祈りに似た感情。
「百年前のもの……」
リーナは呟いた。
「残響の限界を超えていますわ。鑑譜眼では、通常百年以上前の残響は聴こえない。なぜ——」
答えは、目の前にあった。
ミーリアだ。ミーリアの星脈に呼応する力が、大地に染み込んだ百年前の旋律を増幅している。それを鑑譜眼が拾い上げた。単独では不可能な聴取が、二つの力の共鳴で可能になった。
リーナの瞳が、金色から紫に戻った。限界だ。こめかみの痛みが鋭くなり、視界が一瞬暗くなった。
* * *
東屋で、ミーリアが淹れてくれたハーブ茶を飲んだ。
頭痛が引くまで、しばらく無言だった。薬草園の穏やかな空気が、鑑譜眼の負荷を和らげてくれる。
「ご無理をされたのですね」
ミーリアが心配そうに覗き込んでいた。
「少しだけ。でも、とても大切な発見がありましたの」
「大切な発見?」
「あなたが大地に触れている時、わたしの鑑譜眼に百年前の旋律が聴こえたのですわ」
ミーリアが目を丸くした。
「百年前の——アリーシア様の?」
「ええ。あなたの力が大地の記憶を呼び起こし、それをわたしの鑑譜眼が聴いた。一人では届かない深さに、二人の力が重なって届いた」
ミーリアの緑の瞳に、涙が滲んだ。今度は悲しみではなく、何か別のものだった。
「わたしの力が、役に立てるのですね」
「役に立つなどという言葉では、到底足りませんの」
リーナはハーブ茶のカップを置いた。
「ミーリアさん。わたしはこれから帝都に戻ります」
「帝都に?」
「帝都の地下に、封印研究室があるのですわ。そこには百年前の記録が眠っている。あなたの力で呼び起こされた旋律の続きが、きっとそこにある」
ミーリアの表情が曇った。
「帝都は——あそこに戻るのは、身体が震えます」
「ええ。嘘だらけの場所ですもの」
リーナは微笑んだ。
「でも、嘘を暴くのがわたしの仕事ですから」
フェリクスが東屋の柱に背を預けて立っていた。腕を組み、口を開かない。しかしその目は、リーナを真っ直ぐに見ていた。
「ミーリアのことは俺が守る」
短い言葉だった。それ以上は何も言わない。
「お願いいたします」
リーナは立ち上がった。
「この場所が、今一番安全だということは鑑譜眼で確かめました。あなたの旋律がこの土地を守っている限り、グリュンハイムの星脈は安定していますわ」
ミーリアが立ち上がり、リーナの手を両手で包んだ。小さくて温かい手だった。土の匂いがかすかにする。
「リーナ様。またお会いできますか」
「ええ。必ず」
リーナの鑑譜眼は使っていなかったが、ミーリアの手から伝わる温もりに、あの透明な旋律の余韻を感じた。
* * *
宿に戻ると、ルシアンが中庭で待っていた。
二人きりだ。口調が「俺」に変わる。
「ミーリアのところか」
「ええ。大きな発見がありましたの」
リーナは鑑譜眼で聴いたことを簡潔に伝えた。ミーリアの大地を癒す力が百年前の旋律を増幅したこと。アリーシアの封印術の断片が聴こえたこと。
ルシアンの碧眼が揺れた。
「百年前の残響が聴こえた。鑑譜眼が——」
「覚醒し始めていますわ」
リーナは自分の目を手で覆った。
「今まで残響は、せいぜい数十年が限界でした。それが百年前まで届いた。ミーリアさんの力が鍵ですけれど、わたしの鑑譜眼自体も変わり始めている」
「帝都に戻れば、封印研究室がある」
「ええ。あそこには百年前の文書がある。今の鑑譜眼なら、文書に残された旋律を直接読み取れるかもしれませんわ」
ルシアンが一歩、近づいた。
「危険だぞ。ヴァレンシュタインの懐に飛び込むことになる」
「飛び込まなければ、真実には辿り着けませんわ」
リーナは手を下ろし、紫の瞳でルシアンを見上げた。
「帝都に戻れば、封印研究室がある。あそこに百年前の真実が眠っている」
ルシアンの手が伸びて、リーナの銀髪にかかった前髪を払った。不器用な指の動き。
「なら、俺が先に道を作る。研究室への経路と警備は、闇属性で何とかする」
「頼もしいですわね」
「面倒な女の面倒を見るのが、俺の仕事だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
リーナの耳が、かすかに赤くなった。
明日、グリュンハイムを発つ。帝都への帰路は二日。
封印研究室。百年前の真実。そしてヴァレンシュタイン家が隠し続けてきた嘘。
鑑譜眼は覚醒し始めている。百年前の旋律に手が届く。
リーナはグリュンハイムの空を見上げた。澄んだ青空に、一羽の鳥が円を描いて飛んでいた。
帝都に戻れば、嵐が待っている。けれど嵐の向こうに、百年前の真実がある。
その旋律を、わたしは聴きに行く。




