第49話 公爵家の暗躍
帝都イグナシオン。ヴァレンシュタイン公爵邸。
ディートリヒは執務室の机を拳で叩いた。
銀のインク壺が跳ね、羽根ペンが転がり落ちた。窓の外には帝都の夜景が広がっているが、ディートリヒの目に入っていない。
「報告が途絶えた」
声は低く、苛立ちを隠そうともしていない。手元には辺境から届くはずだった週次報告書の束がある。最後の報告は五日前。以降、監視役からの通信鳥は一羽も届いていない。
「あの伯爵令嬢め。何を嗅ぎ回っている」
執務室の扉が開いた。
入ってきたのは、父——ヴァレンシュタイン公爵その人だった。
白髪交じりの金髪を後ろに撫でつけ、鋭い碧眼が息子を見下ろしている。軍服ではなく室内着を纏っているが、その佇まいは一分の隙もない。五大公爵家の筆頭たる威厳が、部屋の空気を重くした。
「騒がしいな、ディートリヒ」
「失礼いたしました、父上。しかし辺境の監視報告が——」
「途絶えたことは把握している」
公爵は執務室の椅子に腰を下ろした。ディートリヒの椅子ではなく、窓際の長椅子だ。我が家の執務室なのだから、どこに座っても構わないという態度だった。
「監視役のハインツは、通信鳥の扱いに問題がある男ではない。途絶えたということは、遮断されたと見るべきだ」
「シュヴァルツベルクか」
「おそらく次男だろう。あの男の闇属性なら造作もない」
公爵の声は平坦だった。ただ事実を述べている。
「問題は通信鳥ではない」
公爵が碧眼をディートリヒに向けた。
「あの伯爵令嬢の鑑譜眼だ」
* * *
「鑑譜眼がある限り、あの女は危険だ」
公爵の言葉は、判決のように重かった。
「封印遺構を調査すれば、痕跡に気づく可能性がある。鑑譜眼で旋律を辿れば、術式の操作に人の手が入っていることを読み取るだろう」
ディートリヒは唇を噛んだ。
「あの女が何を見つけたとしても、鑑譜眼は証拠能力を——」
「議会での証拠能力の話ではない」
公爵が遮った。
「あの女が知ること自体が問題なのだ。知れば行動する。シュヴァルツベルクがその波紋を利用すれば、我が家の百年の管理体制が揺らぐ」
ディートリヒは黙った。父の言葉に反論する余地がなかった。
「父上、どうなさるのですか」
「まずは監視を立て直す。ハインツに代わる人間を送る。次に、調査団の報告書を管理下に置く。公式の報告経路を通す形で、我が家の検閲を入れる」
「封印調査団の報告書に検閲を?」
「皇帝代理の勅命とはいえ、封印に関する機密事項は国家安全保障に直結する。我が家が審査するのは当然のことだ。議会にもそう通す」
公爵は長椅子から立ち上がった。その動作は優雅だが、ディートリヒの胃を締めつけるような圧を持っていた。
扉の前で、公爵が足を止めた。
「あの伯爵令嬢の処遇は、お前が決めろ」
「私が?」
「お前が切った女だ。始末もお前がつけろ。ただし」
公爵が振り返った。碧眼に冷たい光が宿っている。
「暗殺のような下策は取るな。シュヴァルツベルクの庇護下にある以上、手荒な手段は逆効果だ。もっと——静かな方法を考えろ」
扉が閉まった。
* * *
ディートリヒは一人、執務室に残された。
机の上の報告書の束を見下ろす。途絶えた監視報告。通信鳥の遮断。封印遺構の調査。
拳を握った。
「あの女は——」
言いかけて、止めた。
記憶が蘇る。あの瞳が金色に光ると、嘘がすべて暴かれた。
あの目が怖かった。だから切った。
扉が再び開いた。
「ディートリヒ様」
フローラ・エーデルシュタインが入ってきた。栗色の髪を高く結い上げ、宝石をあしらった夜会服を纏っている。帝都の夜会から戻ったところだろう。
「お父上のお声が聞こえました。何かございましたの?」
「辺境の監視が途絶えた。あの女が封印遺構で何かを嗅ぎ回っている」
「まあ。困ったことですわね」
フローラがディートリヒの隣に立った。白い手が、ディートリヒの握りしめた拳に添えられた。
「焦る必要はありませんわ。あの方がどれほど遺構を調べたところで、証拠を帝都に持ち帰る手段は限られていますもの。それに、議会で鑑譜眼が証拠として認められたことは一度もございませんわ」
声は穏やかで、宥めるような調子だった。
もしリーナの鑑譜眼がこの場にあったなら。
フローラの言葉の奥に流れる旋律を聴いたなら。
「焦らないで」に計算が混じっていることがわかっただろう。「証拠として認められない」の裏に、自分自身の嘘が暴かれることへの警戒が鳴っていることも。
しかしディートリヒの耳には、フローラの声は甘く優しく聞こえるだけだった。
「ああ。お前の言うとおりだ、フローラ」
拳を解いた。フローラの手を握り返す。
「ええ。ですから、どうか落ち着いてくださいませ。わたくしがお側におりますわ」
フローラの唇が、微かに弧を描いた。
嘘を見抜く瞳を捨てた男は、目の前の嘘に気づかない。フローラが差し出す計算された優しさを、疑うことなく受け入れている。
* * *
フローラが去った後。
ディートリヒは一人、窓辺に立っていた。帝都の夜景を見下ろしている。遠くに議事堂の尖塔が見え、その向こうに宮廷の灯りが輝いている。
ふと、足音が聞こえた。
書斎の奥。壁の一角に設えられた扉の前で、父の影が動いた。
ヴァレンシュタイン公爵が、棚から何かを取り出している。
小さな金属の光。鍵だった。
古びた鉄の鍵。装飾のない、実用的な作り。しかし鍵の頭には、ヴァレンシュタイン家の紋章が小さく刻まれている。
公爵が棚から取り出したのは、帝都地下の封印研究室の鍵だった。
百年分の秘密が、その鍵の向こう側にある。
ディートリヒは声をかけることができなかった。父の背中が、いつもより小さく見えた。
自室に戻り、椅子に沈む。机の上には未処理の報告書が積まれている。どれもかつてはリーナが横にいて、書類の嘘を事前に指摘してくれていた仕事だ。
「あの女の目があれば」
口にしかけて、唇を噛んだ。
「……要らない。あんな気味の悪い目は要らないはずだ。フローラがそう言っていたではないか。鑑譜眼は証拠にならない。あの女が何を見つけたところで——」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
もしリーナがこの部屋にいたなら。ディートリヒの核紋が奏でる旋律を聴いたなら。
「要らない」という言葉が、どれほど大きな不協和音を鳴らしていたか。ディートリヒ自身すら気づいていない嘘を、リーナなら一瞬で聴き分けていただろう。
だがリーナはいない。
帝都の夜は深く、ヴァレンシュタイン公爵邸の窓には灯りが消えなかった。




