第48話 封印研究の痕跡
封印遺構は、グリュンハイムの北東の丘を越えた先にあった。
草に埋もれた石段を下ると、地面に半ば沈んだ石造りの建造物が現れる。百年の歳月が苔と蔦で壁面を覆っていた。
空気が変わった。グリュンハイムの穏やかな大地の旋律が、ここだけ途切れている。代わりに、低く軋むような音が地面の下から響いている。
リーナの瞳が、紫から金色に変わった。
「……聴こえますわ」
呟きは小さかった。隣のルシアンだけが聞き取った。
「何が見える」
「旋律の痕跡。壁面に刻まれた、百年前の術式の残響ですわ」
調査団の団長が号令をかけ、団員たちが遺構の内部に入っていった。リーナとルシアンはその列の最後尾についた。
* * *
石壁に囲まれた通路が奥へと続いている。ルシアンの闇属性が通路の影を操り、足元を照らした。
リーナは壁面に手を触れた。
鑑譜眼が、一斉に反応した。
石の奥から旋律が溢れてくる。百年前の旋律だ。封印を施した術者の核紋の残響が、石壁に染み込むように残っている。
「これは——」
リーナの指先が震えた。
旋律は美しかった。大聖女アリーシアの封印術は、星脈の流れを整え、暴走したエネルギーを鎮める調べとして刻まれている。だがその旋律の下に、もう一つの音が重なっていた。
別の術者の痕跡。アリーシアとは異なる核紋の旋律。
不協和音ではない。しかし明らかに人為的な操作の跡がある。星脈の流れを、ある方向に意図的に曲げた形跡。
「自然劣化ではありませんわ」
リーナは壁から手を離し、ルシアンを振り返った。
「この封印遺構には、アリーシアの術式の上から、別の術者が手を加えた痕跡がありますの。星脈の流れを意図的に操作している。しかもこの操作は——封印を強化するためではなく、弱めるためのもの」
ルシアンの碧眼が鋭く光った。
「ヴァレンシュタインか」
「旋律の特徴からは、まだ断定できません。しかし、人の手が入っていますわ。それだけは確か」
* * *
調査が進むにつれ、リーナの確信は深まった。
遺構の奥に進むほど、人為的な操作の痕跡は鮮明になった。星脈の流路を変える術式が、壁面の数か所に刻まれている。どれも精緻で、高度な魔導知識を持つ者でなければ施せない技術だった。
リーナは通路の分岐点で立ち止まった。ここに来て、三つの旋律が重なって聴こえる。
一つ目は、アリーシアの封印術。百年を経ても色褪せない、深い星属性の調べ。
二つ目は、操作者の術式。封印を内側から蝕むように、星脈の流路をずらしている。
そして三つ目は——
「この旋律」
リーナの眉が寄った。三つ目の旋律は、つい最近のものだった。百年前ではなく、せいぜい数年前。誰かが定期的にこの遺構を訪れ、操作を更新していた痕跡。
「現在進行形で、封印が弄られていますわ」
ルシアンが通路の向こうを確認し、声を落とした。
「調査団の中に、ヴァレンシュタインの監視役がいる。今、この会話を聞かれていないか」
「大丈夫ですわ。あの男は今、遺構の入口で他の団員と一緒にいます。ここまでは聴こえない」
リーナは鑑譜眼を入口の方角に向けた。監視役の核紋の旋律が、かすかに聴こえる。動揺。焦り。遺構の内部でリーナが何を見つけるか、気が気でない様子が旋律に表れていた。
「あの男の核紋に、不協和音が溢れていますわ」
「自覚しているのか。自分が何を隠しているのか」
「おそらく、封印が弄られている事実は知っている。ただし全容は知らない。末端の駒ですわ」
ルシアンは壁に寄りかかり、腕を組んだ。
「監視役の通信鳥は俺が遮断してある。帝都への報告は届かない」
「それなら、もう少し奥まで調べられますわね」
* * *
遺構の最深部に到達した時、リーナの鑑譜眼が最も強い反応を示した。
壁面全体が、旋律の塊だった。アリーシアの封印術の核心部。そしてその上から被せられた操作術式が、ここでは最も濃密に残っている。
リーナは両手を壁に当てた。瞳が金色に燃えている。
操作術式の旋律を辿る。一音一音、丁寧に聴き分ける。術者の核紋の特徴。使われた魔力の属性。そして、旋律が指し示す方角。
「……聴こえましたわ」
リーナは壁から手を離した。両手が小刻みに震えていた。鑑譜眼の長時間使用による負荷が、こめかみに鈍い痛みを残している。
「旋律は、方角を持っていますの。この操作術式は、ある地点を起点として施されている」
「どこだ」
「帝都の方角」
ルシアンの表情が、一瞬だけ変わった。すぐに冷静な碧眼に戻ったが、リーナは見逃さなかった。
「帝都で研究し、現地に出向いて施している。そして定期的に更新している」
「ヴァレンシュタイン家の封印研究室」
「ええ。あの家が封印を独占管理している理由は、これですわ」
「隠すためではなく、弄るため。そして弄った事実を隠すために、独占する」
出口に向かう通路を歩きながら、リーナは足を止めた。
遺構の入口付近に、監視役の核紋の旋律が感じられる。不協和音がさらに大きくなっていた。リーナが何を見つけたか、報告しなければならない。しかし通信鳥は遮断されている。
「あの男、焦っていますわね」
「泳がせるか」
「ええ。偽の報告書を作りましょう。『遺構に特異な発見はなかった。封印の自然劣化を確認した』と」
リーナは口元に薄い笑みを浮かべた。
「ヴァレンシュタイン家が安心するような嘘を、こちらから提供して差し上げますわ」
ルシアンが小さく鼻を鳴らした。
「嘘を暴く女が、嘘を書くのか」
「嘘を知り尽くしているからこそ、上手に書けますのよ」
遺構の外に出ると、グリュンハイムの午後の光がまぶしかった。
「ルシアン様」
「何だ」
「帝都に戻ったら、封印研究室に入る方法を探さなくてはなりませんわね」
ルシアンが横目でリーナを見た。
「方法ならある。問題は、入った後で出てこられるかどうかだ」
「出てこられますわ。わたくしには鑑譜眼がありますもの。罠も嘘も、全て聴こえますわ」
リーナの紫の瞳に、一瞬だけ金色の光が走った。
帝都の地下では、封印研究の中枢が今もなお、百年前の嘘を更新し続けている。




