第47話 二つの旋律が交差する時
薬草園の門は、朝露に濡れていた。
リーナは門の前に立ち、背筋を伸ばした。隣にルシアンが立っている。口調は「私」。公式の訪問だ。
門の向こうから、重い足音が近づいてきた。
「また来たか」
山守の男だった。背が高く、無骨な体格。日に焼けた肌に深い皺が刻まれ、目元には警戒の色がある。昨日リーナを追い返した時と同じ、鉄壁の表情。
「失礼いたします。シュヴァルツベルク公爵家のルシアン・シュヴァルツベルクと申します。帝国封印調査団の一員として、正式にお伺いしたい」
ルシアンが一歩前に出て、調査団の書簡を差し出した。皇帝代理の押印がある公文書だ。
山守の男は書簡を受け取り、しばらく睨むように読んでいた。やがて、低い声で言った。
「ミーリアに危害を加えるなら、帝国だろうが公爵だろうが容赦しねえ」
「承知している」
ルシアンの声は冷淡だった。しかしリーナの耳には、その旋律に微かな敬意が混じっていることが聞こえていた。
門が開いた。
* * *
薬草園は、小さな楽園だった。
低い石垣に囲まれた敷地に、色とりどりの薬草が整然と並んでいる。空気が違う。澄み切った大気。リーナの鑑譜眼が、意識せずに反応した。
大地の旋律。穏やかで、温かく、深い。この薬草園の土壌は、星脈と直接つながっている。
奥の畑で、少女が膝をついていた。
土に手を当て、何かに耳を澄ませるように目を閉じている。亜麻色の髪が朝風に揺れ、横顔に柔らかい光が落ちていた。
リーナの瞳が金色に変わった。
少女の核紋から、旋律が溢れている。透明で、根源的な音。星脈そのものの脈動と呼応し、大地を癒す調べ。やはり、あの夜の旋律と同じだ。
少女が顔を上げた。
緑がかった瞳が、リーナの金色の瞳と交差した。
「……あ」
少女の唇が、小さく動いた。
「あの夜——宮廷の回廊で、声をかけてくださった方ですか?」
リーナの心臓が、一つ跳ねた。
「覚えていらっしゃるの?」
「はい。忘れられないです。あの夜、わたしは——泣いていて。通りかかった銀髪の方が、一言だけ声をかけてくださって」
少女は立ち上がり、土のついた手をエプロンで拭いた。その仕草は素朴で、宮廷の作法とはかけ離れている。
「『泣いていても、何も変わりませんわよ』って。あの言葉が——ずっと、わたしの支えでした」
リーナは息を呑んだ。自分に言い聞かせるように放った言葉が、この少女の中で生き続けていた。
「申し遅れましたわ。リーナ・クレスタフェルデと申します。クレスタフェルデ伯爵家の長女です」
「わたしは——ミーリアです。ミーリア・ローゼンクロイツ」
リーナの足が止まった。
ローゼンクロイツ。
大聖女アリーシアの血筋を継ぐ、五大公爵家の一角。しかし百年の間S級聖女を輩出できず、宮廷での影響力は最も弱い家。
「ローゼンクロイツ……」
「えっと、驚かれましたか? すみません、あまり立派な家ではないので……あわわ、いえ、そういう意味ではなくて」
ミーリアが慌てて手を振った。頬が赤くなっている。
リーナの鑑譜眼が、ミーリアの旋律を聴いていた。照れ。自虐。けれど嘘はない。この少女の核紋には、一片の不協和音もなかった。
「立派ではない、ですって?」
リーナは一歩、近づいた。
「大聖女アリーシアの末裔が、そんなことをおっしゃるものではありませんわ」
ミーリアの緑の瞳が大きく見開かれた。
「アリーシア様のことを、ご存じなのですか」
「ええ。あなたの旋律を聴けば、わかりますの」
* * *
薬草園の端にある東屋で、リーナとミーリアは向かい合って座った。ルシアンは少し離れた場所に立ち、山守の男——フェリクスと呼ばれていた——と並んで門を見張っている。
「リーナ様の瞳、時々金色に光りますね」
「鑑譜眼、と呼ばれていますわ。人の核紋を旋律として聴く力です」
「旋律として……」
ミーリアが小首を傾げた。
「わたしも似たようなことがあるかもしれません。土に触れると、大地の声が聞こえるんです。どこが痛いか、どこが渇いているか。言葉ではないのですけれど、なんとなく」
リーナの鑑譜眼が、ミーリアの核紋を静かに聴いていた。嘘はない。この少女は本当に、大地の声を聴いている。
「ミーリアさん。あなたの核紋は、今まで聴いたどんな旋律とも違いますわ」
「え?」
「透明で——どこまでも深い。光属性の聖女候補では決して奏でられない音です。あなたの旋律は、星脈そのものと呼応している」
ミーリアが手元のカップを握りしめた。ハーブ茶の湯気が、朝の光に揺れていた。
「わたし、宮廷の鑑定ではB級の水属性って言われました。何の取り柄もない、って」
「その鑑定が間違っていたのですわ」
リーナの声は、静かだが確信に満ちていた。
「星属性は既存の鑑定では測定できません。あなたの力は、鑑定の枠に収まるようなものではありませんの」
ミーリアの目に、涙が滲んだ。慌てて手の甲で拭う。
「す、すみません。誰かにそう言ってもらえたのが、初めてで」
フェリクスが東屋の方を振り返った。無表情だが、その目元がかすかに和らいでいた。
* * *
午後の陽が傾き始める頃、リーナは薬草園を辞した。
帰り道、ルシアンと並んで歩いた。村の石畳を踏む二人の足音が、午後の静けさに響いている。
「名前がわかった」
ルシアンの声。まだ口調は「私」のまま。村の中では人目がある。
「ミーリア・ローゼンクロイツ」
「ローゼンクロイツ」
ルシアンの碧眼が鋭くなった。
「大聖女の血筋か」
「ええ。そして星属性の持ち主。宮廷の鑑定ではB級水属性と誤判定されて、何の取り柄もないと切り捨てられた」
「鑑定の枠が最初から歪んでいた、ということだな」
「星属性を測定項目に入れなかったのは偶然ではありませんわ。ヴァレンシュタイン家が聖女条件を光属性S級に設定した時、星属性の存在は意図的に消された」
リーナは立ち止まった。村の外れから見える丘陵が、夕日を受けて金色に光っている。
「大聖女アリーシアの末裔が、辺境で大地を癒している」
リーナの声は低く、真剣だった。
「この事実を、ヴァレンシュタイン家は知っているのかしら」
ルシアンは答えなかった。その沈黙が、答えそのものだった。
知っていれば——放置するはずがない。
知らなければ——知った時、何をするかわからない。
どちらにしても、この少女は危険の中にいる。
リーナは歩き出した。宿に向かう足取りは速い。やるべきことが山積みだった。
けれど胸の奥で、一つの旋律がずっと鳴り続けていた。
偶然ではない、とリーナの鑑譜眼が告げている。この再会には、百年前の旋律の残響が響いていた。




