第46話 あの夜の旋律
宿の一室に戻っても、あの旋律が耳から離れなかった。
グリュンハイムの夜は静かだ。窓の外では虫の声がかすかに聞こえるだけだった。
リーナは寝台の端に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。
あの少女の核紋。透明で、深く、大地そのものと呼応するような音。
「……聴いたことがありますの」
リーナは自分の声が、宿の薄い壁に反響するのを聞いた。
記憶が遡る。婚約破棄の夜。宮廷の大広間を追い出され、東回廊を一人で歩いていたあの時。覚醒したばかりの鑑譜眼が、柱の陰で泣いていた少女の核紋を拾った。
あの旋律だ。
当時は覚醒直後で、判別する力がなかった。ただ「透明で美しい」としか感じ取れなかった。しかし今の鑑譜眼なら、旋律の一音一音まで聴き分けられる。
同じ旋律。同じ少女。
* * *
翌朝、リーナは調査団の宿舎に設えられた仮の書庫を訪れた。
書庫と言っても、元は宿の食料庫だった部屋だ。石壁は冷たく、天井は低い。しかし乾燥した空気が文書の保管には向いている。帝都から運び込まれた木箱が三つ、壁際に並んでいた。
封印調査団には、聖域山脈の封印に関する文献が持ち込まれている。リーナが目を通したのは、大聖女アリーシア・ローゼンクロイツの記録だった。
百年前の書物は紙が黄ばんでいるが、インクは不思議なほど鮮明だった。
「アリーシアの核紋は、既知の七属性のいずれにも該当しない異質な旋律を示し……」
リーナは文面を指でなぞりながら、呟いた。
「星脈に直接呼応する力。失われた第七の属性——『星属性』」
鑑譜眼を通さなくても、この記述に嘘はないと直感できた。昨日、薬草園で聴いた旋律と、百年前の記録が描く星属性の特徴が、完全に一致している。
リーナの瞳が紫から金色へ変わった。文書の紙面を視ると、インクの奥から微かな旋律の残響が立ち上る。百年前の筆者の核紋の痕跡。研究者としての誠実さが、淡い和音として聴こえた。
嘘のない記録だ。
「星属性は大崩落以後、保持者が途絶えたとされていますわ」
リーナは文書を閉じた。指先が、かすかに震えていた。
「途絶えたのではない。隠されたのですわね」
リーナは記録をさらに読み進めた。アリーシアが封印を施した際の術式構成。星脈の流路を制御するための旋律設計。そして封印が「三つの核」で構成されていたという記述。
「三点封印。帝都、辺境、迷宮……」
三つの地脈の交差点に、それぞれ封印の核が置かれている。どの一つが欠けても、封印の全体が崩壊する構造。
リーナは記録の余白に目を留めた。誰かが鉛筆で薄く書き込んだ注釈がある。インクの文字よりずっと新しい。
「『星属性の系譜については機密事項につき削除済み』……」
削除済み。誰が削除したのか。リーナの鑑譜眼が鉛筆の筆跡に反応した。書き込んだ人物の核紋の残響はかすかだが、学者ではない。行政官、あるいは検閲官の核紋だった。
百年前の記録に、後から検閲が入っている。星属性に関する情報は、意図的に消されていた。
* * *
昼過ぎ、宿の中庭でルシアンと合流した。
調査団の他の団員たちは封印遺構の外周調査に出ている。中庭には二人だけ。ルシアンの口調は「俺」に切り替わっていた。
「文書の照合は終わったか」
「ええ」
リーナは腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
「あの少女の核紋は、大聖女アリーシアの記録に記された星属性の旋律と一致していますわ」
ルシアンの碧眼が細くなった。
「星属性。百年前に途絶えたはずの」
「はずの、ですわ。現に、あの子の核紋は星脈そのものと呼応していた。昨日聴いた旋律は、光属性とは根本的に異なりますの。もっと深くて、もっと古い音」
「帝国聖女の条件は光属性S級だ。星属性は鑑定の測定対象にすらなっていない」
「だからこそ、見過ごされた。あるいは」
リーナは中庭の石畳を見つめた。
「意図的に、排除された」
「ルシアン」
リーナは顔を上げた。
「あの子は、聖女候補より遥かに重要な存在かもしれませんわ。星脈に直接触れる力。それは封印を修復する力であり、大崩落の真実に辿り着く鍵でもある」
ルシアンは腕を組んだまま、リーナの顔を見ていた。その碧眼に、何かを計算する光が宿っている。しかし鑑譜眼を使わなくても、彼の旋律に嘘がないことはわかっていた。
「あの子の名前は聞けたか」
「いいえ。山守の男が、会話の前に追い返しましたもの」
「あの男、厄介だな」
「厄介ですけれど、嘘はありませんでしたわ。あの少女を守ろうとする意志だけは本物です」
ルシアンが碧眼を細めた。
「帝都の調査団を門前払いする胆力。ただの山守ではないな」
「ええ。おそらく、あの少女を辺境に匿った誰かの意思が、あの男の背後にある」
「明日、正式に訪問する。俺の方で話をつける。皇帝代理の書簡があれば、さすがに断れないだろう」
リーナは頷いた。そして視線を中庭の向こうに移した。薬草園のある方角。あの旋律がまだ、微かに風に乗って聴こえる気がした。
* * *
夜になった。
宿の窓辺に座り、リーナは星空を見上げていた。グリュンハイムの星は、帝都で見るよりずっと近い。降ってくるように明るく、一つ一つが脈打っているように見えた。
あの夜を思い出す。
婚約破棄の夜。ディートリヒの言葉。「お前の目が気味悪い」。その衝撃で覚醒した鑑譜眼。東回廊を歩き、柱の陰で泣いていた少女と擦れ違った。
あの少女に、何と声をかけたのだったか。
「泣いていても、何も変わりませんわよ」
そう言った。自分自身に言い聞かせるように。
あの少女が今、この辺境で大地を癒している。偶然だろうか。あの夜に全てを失った二人が、同じ場所に辿り着いたのは。
なぜこの少女が、宮廷から追放されたのか。
星属性の持ち主。大聖女の血筋に連なるかもしれない存在。それほどの力を持つ者が、なぜ辺境に追いやられ、山守の男一人に守られているだけなのか。
答えはおそらく、帝都にある。ヴァレンシュタイン家が百年間隠し続けてきた嘘の中に。
リーナは窓を閉じた。明日、あの少女に会う。今度は、名前を聞く。旋律の向こう側にある真実を、聴きに行く。
グリュンハイムの夜が、静かに更けていった。




