第45話 薬草園の少女
朝露が光っていた。
リーナは丘の小道を登り、薬草園の垣根の前に立った。ルシアンが二歩後ろを歩いている。監視役のハンスは、ルシアンの闇属性によって封印遺構の方角に意識を逸らされているはずだった。
垣根の向こうに広がる薬草園は、リーナの想像を超えていた。
整然と区画された畑に、何十種類もの薬草が育っている。朝日を受けて葉先の露が虹色に光り、空気には薬草の清涼な香りが満ちていた。
そして——畑の中央に、一人の少女がいた。
栗色の髪を無造作に束ね、膝をつき、両手を土に当てている。質素な木綿の服。裸足。泥が指の間にこびりついている。貴族の令嬢とは対極の姿だったが、その佇まいには不思議な静けさがあった。
リーナの鑑譜眼が、自動的に発動した。
制御する間もなかった。瞳が紫から金色に変わり、少女の核紋から旋律が流れ込んでくる。
全身に鳥肌が立った。
透明だった。どこまでも透明で、深く、大地そのものと呼応している旋律。昨日、風が運んできた音の正体がこれだ。少女の核紋から湧き出る旋律は、星脈の脈動と完全に同調していた。
リーナは息を呑んだ。
けれどこの少女の旋律には、属性の色がない。もっと根源的な、全ての属性の源流のような音。
リーナの膝が震えた。
「……なんて、旋律」
呟きが漏れた。
少女が顔を上げた。土に当てていた手を離し、立ち上がる。栗色の髪の間から、澄んだ翠の瞳がリーナを見つめた。
「あの——どなたですか」
小さな声だった。警戒と、好奇が半分ずつ混じっている。
リーナが口を開きかけた瞬間——
「帝都の人間は帰れ」
低い声が割って入った。
薬草園の奥から、長身の男が現れた。日に焼けた肌、無造作に伸びた黒髪、粗末な革の上着。腰には山刀を提げている。鋭い目がリーナとルシアンを射抜いた。
「この子に用はないはずだ。封印の調査なら遺構に行け」
男は少女の前に立ちはだかった。山守だ。村人たちが「薬草園のお嬢さんを守っている男」と言っていた人物。
ルシアンが一歩前に出た。口調は「私」。公的な場面。
「私はシュヴァルツベルク家のルシアンです。帝国の正式な封印調査団として、グリュンハイムの星脈の状態を調べています。こちらのクレスタフェルデ嬢は、調査団の鑑定師です」
「知ってる。帝都の貴族だろう。この土地に貴族の用はない」
山守の目に、敵意が剥き出しになっていた。リーナの鑑譜眼がその核紋を捉える。
嘘はない。この男は本心から帝都の人間を拒んでいる。核紋の旋律には深い不信と、少女を守ろうとする硬い決意が刻まれていた。
「フェリクス」
少女が山守の腕に触れた。
「大丈夫。この方たちは、悪い人じゃないと思う」
「お嬢、帝都の人間を信用するなと何度も言っただろう」
「でも——」
少女の翠の瞳がリーナを見た。不思議そうに首を傾げている。
「この方の瞳、金色に光っていたの。綺麗だった」
リーナは慌てて鑑譜眼を切った。瞳が紫に戻る。見られていた。少女は、リーナの鑑譜眼が発動していたことに気づいていたのだ。
山守のフェリクスが低く唸った。
「帰ってくれ。この子を巻き込まないでくれ」
ルシアンがリーナに目配せした。碧眼が「引くべきだ」と告げている。ここで押せば、山守との関係は修復できなくなる。
「……わかりましたわ」
リーナは一歩退いた。令嬢の微笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げる。
「突然の訪問、失礼いたしました。また改めて、お話を聞かせていただけませんか」
フェリクスは答えなかった。少女を背に庇い、険しい目でリーナとルシアンを見送っている。
リーナは踵を返す前に、もう一度だけ少女を見た。栗色の髪が朝風に揺れている。翠の瞳が、垣根越しにリーナを見つめ返していた。
リーナは微笑んだ。少女の口元が微かに動いた。何かを言いかけて、やめた。フェリクスの手が少女の肩に置かれ、二人は薬草園の奥へと消えた。
* * *
薬草園を離れ、丘の小道を下りながら、リーナは沈黙していた。
ルシアンが隣を歩いている。調査員の姿はない。二人きり。
「俺に訊かないのか。あの少女が何者かと」
「訊きませんわ」
リーナの声は静かだった。
「わたしの鑑譜眼が聴いた旋律が、全てを語っていますもの」
歩きながら、リーナは右手で左の腕を抱いた。鳥肌がまだ消えていない。
「あの少女の核紋は、今まで聴いたどの旋律とも違いますわ。光属性ではない。闇でも、炎でも、水でもない。もっと深い、もっと根源的な何か」
「星属性か」
「わかりません。ただ——あの旋律は、星脈そのものと呼応していた。大地が歌っている理由は、あの少女ですわ。グリュンハイムの星脈が穏やかなのは、あの子の力が鎮めているから」
ルシアンは黙って頷いた。
「それと、もう一つ」
リーナは足を止めた。丘の中腹から、グリュンハイムの村が見下ろせる。朝日が石造りの家々を温かく照らしている。
「あの山守——フェリクスという男。あの人の核紋には、嘘は一つもありませんでしたわ。ただし、強い不信がある。帝都の人間に対する根深い不信。あの少女を守るために、帝都から来る者を全て拒んでいる」
「理由に心当たりは」
「ありませんわ。でも——理由があるのだとしたら、それは帝都の人間が、あの少女に何かをした過去があるということですわね」
リーナは歩き出した。ルシアンが続く。
二人の足音が、朝露の残る小道に柔らかく響いた。
* * *
宿屋に戻ったリーナは、自室の窓辺に座り、紅茶を手にしていた。
あの少女の旋律が、耳から離れない。
透明で、深く、根源的な音。大地と呼応する旋律。帝都で聴いた何百人もの核紋とは次元の違う音色。
リーナはカップを置き、目を閉じた。
記憶を辿る。鑑譜眼が覚醒した夜——婚約破棄の夜。宮廷の大広間を追い出され、東回廊を一人で歩いていた時。柱の陰で泣いていた少女の核紋に、初めて「旋律」を聴いた。
あの時は覚醒直後で、旋律の細部を判別できなかった。透明で美しく、どこか切ない音だということしかわからなかった。
でも今なら、わかる。
リーナは目を開けた。紫の瞳が、窓の外のグリュンハイムの空を見つめている。
あの旋律を、わたしは知っている。
今日、薬草園で聴いた少女の旋律と——あの夜、宮廷の回廊で泣いていた少女の旋律が、同じだった。




