第44話 対面の前夜
その夜、リーナは宿泊先の部屋で報告書を整理していた。
調査団には村の宿屋が割り当てられていた。石壁の小さな宿だが、清潔で、窓からはグリュンハイムの丘陵が月明かりに照らされているのが見える。辺境の夜は帝都よりずっと静かだった。
リーナはイヤーカフに触れながら、昼間の旋律を反芻していた。薬草園の方角から聴こえたあの音。透明で、根源的な旋律。あれが「奇跡の薬草師」と呼ばれる少女の力なのか。
廊下から、足音が聴こえた。
リーナの意識が切り替わった。宿屋の廊下を歩く人間は、この時間帯なら調査団の者に限られる。足音は慣れた歩幅で、リーナの部屋の前を通り過ぎ——階段を下りていった。
もう一つ、別の足音が続く。こちらはやや慌てた様子で、最初の足音を追いかけている。
リーナは扉を僅かに開けた。
廊下の先、階段の踊り場の影に、二人の人間が立っていた。蝋燭の光が壁に揺れる影を落としている。一人は調査団の調査員——ヴァレンシュタイン家から派遣された男だ。もう一人は、護衛騎士の一人。
声が微かに聴こえた。
「……クレスタフェルデ嬢の動向を報告しろ。本日の聞き込みで何を聞いたか、誰と話したか、全てだ」
リーナの瞳が金色に変わった。
男の核紋に、鑑譜眼が触れる。旋律が流れ込んできた。
まず、嘘はなかった。男の言葉は本気だ。リーナの動向を報告しろという命令は、この男自身の意思ではなく——上からの指示を伝えているだけ。
リーナは残響を辿った。核紋の奥に刻まれた過去の旋律に耳を澄ませる。男の記憶が断片的に浮かび上がる。
帝都のヴァレンシュタイン公爵邸。出発前日。金髪碧眼の騎士団長が、この男の前に立っている。
「リーナ・クレスタフェルデの調査内容を逐一報告しろ。鑑譜眼で何を視たか、誰の核紋を聴いたか。特に封印に関する発言は一字一句逃すな」
ディートリヒの声だった。
リーナは静かに扉を閉じた。瞳が紫に戻る。
息を整えた。予想はしていた。ヴァレンシュタイン家が調査団に監視役を紛れ込ませることは、ルシアンも警戒していた。
問題は、護衛騎士を情報源として使っていること。日中にリーナが鑑譜眼を何回使い、誰の核紋を聴いたか。その情報が帝都のディートリヒに筒抜けになっていたのだ。
リーナの口元が引き締まった。
ヴァイセンベルクでの調査結果。オスターフェルトで聴いた星脈の軋み。そしてグリュンハイムの大地が歌っていること。全て報告されているはずだ。ならば、明日の薬草園への訪問は監視の目から隠さなければならない。
リーナは部屋を出て、ルシアンの部屋の扉を叩いた。
* * *
ルシアンの部屋は、リーナの部屋よりひと回り狭かった。窓辺に椅子が一つ。ルシアンはそこに座り、リーナの報告を聞いた。
二人きり。口調は「俺」。
「ヴァレンシュタイン家の調査員が、護衛騎士を使ってわたしの動向を報告させていましたわ」
「やはりか。どの男だ」
「調査員のハンス。残響で確認しましたわ。出発前にディートリヒ本人から直接命令を受けていますの。わたしの鑑譜眼の使用状況を、一字一句報告しろと」
ルシアンが腕を組んだ。碧眼が鋭く光る。
「始末するか」
「いいえ」
リーナは首を横に振った。口元に薄い笑みが浮かんでいる。
「泳がせましょう。この男がいれば、こちらから偽の情報を流せますわ」
ルシアンがリーナを見た。
「明日、わたしは薬草園に行きますわ。あの旋律の持ち主に会いたい。でも、監視役にはそれを報告させません」
「どうする」
「簡単ですわ。わたしが薬草園に行っている間、監視役には別の場所を見せればいい。封印遺構の調査をしていたと思わせるのです」
リーナは指を立てた。
「ルシアン様が闇属性で監視役の視界を操作できますか」
「操作は無理だ。だが、注意を逸らすことならできる。影で視界の端を遮れば、特定の方角に意識が向かなくなる」
「それで十分ですわ。わたしが薬草園に向かう時間帯に、監視役の注意を封印遺構の方に逸らしてくださいまし」
ルシアンの口元が、微かに歪んだ。笑みだった。冷血公子にしては珍しく、皮肉のない笑み。
「お前は本当に戦場向きだな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
リーナは椅子から立ち上がった。窓の外にはグリュンハイムの丘が月光に沈んでいる。薬草園のある方角は、ここからは見えない。
「この男、あちら側の駒ですわ。でも、駒は使いようによってはこちらの手札になりますの」
ルシアンが頷いた。
「偽情報の内容は俺が考える。ハンスには、お前が封印遺構の壁面に鑑譜眼を使ったが有意な反応がなかった、と思わせればいい。実際には薬草園で何が起きたか、あの男の耳には入らない」
「完璧ですわ」
リーナは満足げに頷いた。
「ところで、ハンスに流す偽情報は一つだけにしてくださいまし。嘘を重ねすぎると、ディートリヒほど愚かでも矛盾に気づく可能性がありますわ」
「愚かとは言っていないだろう」
「わたしが言いましたわ」
ルシアンが僅かに目を細めた。笑みとも皮肉ともつかない表情。
「ええ」
リーナは扉に手をかけた。振り返ると、ルシアンがまだ窓辺の椅子に座っていた。月明かりが碧眼に映り込んでいる。
「ルシアン」
「なんだ」
「明日、あの旋律の持ち主に会えますわね」
声に、僅かな高揚が混じっていた。
「鑑譜眼がここまで騒いだのは、初めてですわ」
ルシアンは何も言わなかった。ただ碧眼でリーナを見ている。その視線に嘘はない。
* * *
部屋に戻ったリーナは、寝台に腰を下ろした。
紺色の外套を膝に置く。ルシアンが帝都で渡してくれた外套。辺境の夜気に、毛皮の裏地が温かい。
天井の木目を見つめながら、胸の奥の高鳴りを持て余していた。
明日、あの旋律の持ち主に会う。
なぜこれほど心が急くのか、リーナ自身にもわからなかった。鑑譜眼は人の嘘を聴く力だ。嘘を暴き、真実を剥き出しにするための瞳。それが、嘘とは無縁の透明な旋律に惹きつけられている。
帝都で出会った人間は、誰もが旋律の中に何かを隠していた。ルシアンでさえ、最初は利用の意図が混じっていた。嘘のない核紋など、この世には存在しないのだと思っていた。
けれど、あの薬草園から届いた旋律には、一片の濁りもなかった。
リーナはイヤーカフに触れた。星脈鉄の冷たい感触。窓の外からは、夜のグリュンハイムの静寂が広がっている。
微かに、薬草園の方角から届く旋律が、まだ聴こえている気がした。
理由のわからない高鳴りに支配されたまま、リーナは目を閉じた。




