第43話 グリュンハイムの風
四つの調査地を巡る間に、リーナの耳は星脈の軋みに慣れてしまっていた。
ヴァイセンベルクでは封印遺構の壁面から低い唸りが聴こえた。オスターフェルトでは地面に手を当てただけで、不快な振動が鑑譜眼を通して身体に伝わった。どの調査地でも、星脈は軋んでいた。歯車が噛み合わないような、引きつるような音。
だから、グリュンハイムに足を踏み入れた瞬間、リーナは息を呑んだ。
大地が——歌っていた。
馬車を降りた足元から、温かな振動が靴底を通して伝わってくる。鑑譜眼を使っていないのに、旋律が聴こえる。穏やかで、低く、どこまでも安定した和音。四つの調査地で聴いた軋みとは正反対の音だった。
「ルシアン様」
リーナは思わず声を上げた。
ルシアンが馬車の脇に立ち、周囲を見回していた。公的な場ではあるが、調査員たちは荷物の積み下ろしに忙しく、二人に注意を払う者はいない。
「どうした」
「星脈が——穏やかですわ。他の四箇所とはまるで違う。ここだけ、大地が軋んでいません」
リーナは膝を折り、地面に手を当てた。
瞳が金色に変わった。
鑑譜眼を通して、星脈の旋律が鮮明に流れ込んでくる。大地の奥深くを流れる星脈が、穏やかに脈動している。他の調査地では軋みと不協和音に満ちていた星脈が、ここではまるで子守唄のように落ち着いている。
だが——それだけではなかった。
星脈の旋律の中に、もう一つの音が重なっている。人の手による力の痕跡。星脈を鎮め、癒した「何者かの力」の残響が、大地に染み込んでいた。
「この土地には、星脈を鎮めた人間がいますわ」
リーナは立ち上がり、土の付いた手を払った。瞳が紫に戻る。
「自然に穏やかなのではない。誰かが意図的に星脈を癒しています。その力の痕跡が、この大地に残っていますの」
ルシアンの碧眼が細くなった。
「それは鑑譜眼でなければわからない情報だな」
「ええ。他の調査員には、ここの星脈が穏やかだということしかわかりませんわ。でもわたしには聴こえます。誰かの旋律が、この大地を守っている」
* * *
グリュンハイムは、山間に広がる小さな村だった。
石造りの家々が緩やかな丘陵に点在し、草と土と清水の香りが混じった澄んだ空気が満ちている。
調査団は村の集会所に拠点を置いた。リーナとルシアンは、村人たちへの聞き込みを始めた。
村長は五十がらみの穏やかな男だった。
「地震でございますか。はい、揺れはございました。しかし被害はなく——家屋の壁に亀裂一つ入りませんでした」
リーナの鑑譜眼が反応する。瞳が淡く金色に光り、村長の核紋を聴いた。
嘘はない。澄んだ旋律。この男は、正直に話している。
「地震の際、何か特別なことはございませんでしたか。例えば、誰かが何かをしたとか」
村長は少し考えてから答えた。
「特別なこと……。そうですな、あの晩は薬草園のお嬢さんが、畑に出ていたと聞いております」
「薬草園のお嬢さん?」
「はい。奇跡の薬草師と、村では呼んでおります。あのお嬢さんが手を当てた畑は枯れ知らずで、水源の涸れた井戸も復活させたことがございます。地震の夜も、あのお嬢さんが畑に出ていた後から、揺れが止んだと——」
村長の核紋から、不協和音は一つも聴こえなかった。嘘をついていない。大げさに語っているのでもない。この男は、見たことをそのまま語っている。
リーナは他の村人にも話を聞いた。
鍛冶屋の親方は、太い腕を組んで語った。
「うちの炉の火が消えかけたことがあってな。薪も炭も足りてるのに、火の勢いが落ちる一方だった。あのお嬢さんが炉の前に座って、手を当てただけで元に戻った。俺は四十年鍛冶をやってるが、あんなことは初めてだ」
核紋を聴く。不協和音なし。
薬草の仲買人は、帝都から来た商人だった。
「あそこの薬草は品質が段違いでしてね。同じ種を他の畑で育てても、グリュンハイム産には敵わない。土が違うとしか言いようがない」
井戸を管理する老婆は、皺だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「三年前に井戸が枯れた時は、村中が大騒ぎでしたよ。あの子が井戸の傍に座って、一晩中手を当てていたら、朝には水が湧いていたんです。それからあの子のことを、奇跡の薬草師と呼ぶようになりましたね」
核紋を聴く。不協和音は一つもない。
全員の証言が一致していた。奇跡の薬草師。地震の夜に畑に出ていた少女。揺れが止まった。誰一人として嘘をついていなかった。
「面白いですわね」
集会所に戻ったリーナは、ルシアンに報告した。調査員たちは別棟で封印遺構の測定を行っている。集会所にはリーナとルシアンの二人だけだった。
「聞き込み相手、全員ですわ。五人の核紋を聴いて、嘘が一つもない。帝都では考えられませんわね。貴族が十人集まれば、最低でも三つは不協和音が混じりますのに」
ルシアンが腕を組んだ。口調は「俺」に切り替わっている。
「奇跡の薬草師か。星脈を鎮める力を持つ人間がいるなら、会っておく必要がある」
「ええ。わたしの鑑譜眼で確かめたいですわ。その少女の核紋に、どんな旋律が刻まれているのか」
「一つ気になることがある」
ルシアンが書類を広げた。調査団が持参した帝国の人口台帳の写しだ。
「グリュンハイムの登録人口と、実際の住民数が合わない。台帳に載っていない人間がいる」
「薬草師の少女のことですか」
「おそらくな。帝都の台帳に記録がない人間が辺境で暮らしている。貴族の子女であれば、台帳から抹消されるのは追放か廃嫡の時だけだ」
リーナの指がイヤーカフに触れた。追放。その言葉に、自分自身の記憶が重なる。婚約を破棄され、宮廷を追われた夜。あの夜から全てが始まった。
「……追放された少女が、辺境で奇跡を起こしている。面白い構図ですわね」
リーナは集会所の窓から外を見た。丘の向こうに、緑の垣根に囲まれた区画が見える。村人たちが「薬草園」と呼んでいた場所だ。
風が変わった。
窓から吹き込む風に、微かな旋律が混じっている。草と花と——もう一つ、リーナの知らない音。
リーナの全身に鳥肌が立った。
「ルシアン」
敬称を忘れた。
「薬草園の方角から、聴いたことのない旋律が流れてきましたわ」
ルシアンがリーナを見た。リーナの紫の瞳が、風に向かって微かに金色に揺れている。
丘の向こうの薬草園から、旋律は途切れなく流れ続けていた。




