第41話 封印劣化の報せ
報告書が山になっていた。
クレスタフェルデ伯爵邸の書斎に、帝国各地からの星脈異常報告が次々と届いている。リーナは書斎の机に向かい、羊皮紙の束を一枚ずつ手に取っていた。
地震から十日。帝都の日常は表面上、元に戻りつつある。砕けたシャンデリアは取り替えられ、亀裂の入った壁は修繕された。けれど報告書の束が告げているのは、帝都の復旧とはまるで別の話だ。
「北部三州から地盤の異常が報告されています。東部沿岸のカスカーラでは潮位の変動。南部の聖域山脈付近では微震が断続的に発生」
ルシアンの声が、向かいの椅子から淡々と読み上げている。口調は「私」。窓の外に面した廊下を、伯爵家の使用人が行き来しているからだ。
「各地の報告を統合すると、星脈に何らかの変動が起きていることは間違いない。しかし帝国議会の公式見解は『自然災害、星脈との関連なし』のままです」
「嘘ですわね」
リーナは手元の報告書に視線を落としたまま言った。
「あの議会の研究主任の不協和音は、今でも耳に残っていますもの」
新たな報告書を手に取った。帝国各地の封印遺構から派遣された調査官の証言書。リーナの瞳が、紫から金色に変わる。
一枚目。北部ヴァイセンベルク州の調査官。
「封印遺構に目立った損傷はなく、星脈の流れは安定しています」
文字の向こうから、微かな不協和音が鳴った。嘘ではない。しかし「安定」という単語に、薄い霞のような歪みが乗っている。この調査官自身は嘘をついていない。ただ、見せられた情報が不完全なのだ。
二枚目。東部カスカーラ管区の報告。こちらは不協和音がない。嘘はついていないし、情報も正確。星脈の微細な変動を正直に記録している。
三枚目。
リーナの指が止まった。
ヴァレンシュタイン家の報告官による封印状態の定期報告書。見慣れた書式に、「自然劣化の範囲内」という記述。
鑑譜眼が鳴った。
鋭い不協和音。二つ。いや、三つ。「自然劣化」に一つ、「範囲内」にもう一つ。そして報告書全体を覆うように、低く唸る不協和音がもう一つ。報告官の核紋に刻まれた旋律そのものが、嘘で塗り固められている。
リーナは報告書を机に置いた。瞳が紫に戻る。
「ルシアン様」
使用人が廊下を通り過ぎるのを待ってから、リーナは声を落とした。
「ヴァレンシュタイン家の報告官、三箇所の不協和音ですわ。特に『自然劣化』という結論が嘘。この報告官は、自然劣化ではないことを知っていて、意図的にそう書いています」
ルシアンが腕を組んだ。碧眼が細くなる。
「他の報告官と比較してどうだ」
「北部の調査官は嘘をついていない。ただし情報が制限されていますわ。東部はそもそも正直ですわね。問題はヴァレンシュタイン家の報告官だけ。明確な虚偽報告です」
「つまり、封印の状態について嘘をついているのはヴァレンシュタイン家だけということか」
「ええ。あの家は何かを隠していますわ」
リーナは椅子の背にもたれた。頭の中で旋律が反芻されている。あの三つの不協和音は、個人の嘘ではない。組織的な隠蔽の旋律だ。報告官個人の判断ではなく、上からの指示で嘘を書かされている。
指示した人間は、封印が自然劣化ではないことを知っている。
* * *
同日、帝都イグナシオン。ヴァレンシュタイン公爵邸。
ディートリヒは父の執務室に呼ばれていた。
窓のない部屋だった。蝋燭が四隅を照らし、壁面の棚には封蝋された文書箱が隙間なく並んでいる。机の向こうに座るヴァレンシュタイン公爵は、白髪を撫でつけた壮年の男だ。鷹のような目が、息子を見据えていた。
「封印管区からの報告書は処理したか」
「はい。各調査官には統一見解を通達し、議会への追加報告も準備しました」
「統一見解の内容は」
「自然劣化の範囲内。星脈の微細な変動は過去にも記録されており、大崩落との関連はない」
公爵が頷いた。表情は動かない。
「よろしい。封印の件はヴァレンシュタイン家が管理する。他家の介入を許すな。シュヴァルツベルクが何を嗅ぎ回っていようが、封印に関するデータは一切渡さない」
「しかし父上、シュヴァルツベルク家が独自に星脈の変動データを集めている可能性があります。あの家の交易網は帝国全土に及んでいる」
「データを集めたところで、封印研究の本体は我が家が握っている。外から得られるのは星脈の表面的な変動記録だけだ。封印の構造に触れることはできん」
公爵が立ち上がり、壁の棚から文書箱を一つ取り出した。封蝋にはヴァレンシュタイン家の紋章が押されている。
「ディートリヒ。議会での追及は、お前の外交判断ミスに集中している。好都合だ。騎士団長の責任問題で議会の目が逸れている間に、封印の補強工事を進める」
「補強工事、ですか」
「百年前の封印は劣化が進んでいる。しかしこれは『自然劣化』として処理する。劣化の原因が何であるかは——知る必要のない者には知らせない」
ディートリヒは父の目を見た。鷹の目に、動揺はない。この男は百年分の嘘を背負っている。その重さを、公爵の姿勢は微塵も見せなかった。
「承知しました」
ディートリヒは一礼して退室した。
廊下に出ると、拳を握りしめた。議会での恥辱が、まだ胸の奥で燻っている。あの伯爵令嬢の鑑譜眼が傍聴席から自分を見ていたことは知っている。あの紫の瞳が、自分の核紋の旋律を聴いていたことも。
だが、今はそれどころではない。封印が本当に劣化しているなら——ヴァレンシュタイン家の存在意義そのものに関わる。
* * *
夜が更けた。
クレスタフェルデ伯爵邸。リーナは自室の窓辺に立っていた。
帝都の夜景が広がっている。街灯の明かりが石畳の通りを照らし、遠くに帝国議事堂の尖塔が闇に浮かんでいる。
その地下から——微かな不協和音が、ずっと鳴り続けていた。
鑑譜眼を使っているわけではない。それでも、リーナの耳にはあの夜から消えない音がある。地震の夜に聴いた、大地の底からの軋み。あの不協和音は、帝都の地下を流れる星脈が発していたのだ。
今もまだ、鳴っている。
リーナはイヤーカフに触れた。星脈鉄の冷たい感触が指先に伝わる。
「帝都の地下に、何があるのかしら」
声に出した呟きは、夜風に溶けて消えた。
ヴァレンシュタイン家は封印研究を独占している。封印のデータを握り、星脈異常を隠蔽している。その理由は何か。自然劣化ではない劣化の原因を、あの家は知っている。知っていて、百年もの間、帝国中に嘘をつき続けてきた。
あの報告書の不協和音は、一人の報告官の嘘ではなかった。百年分の組織的な隠蔽が、一枚の羊皮紙に凝縮された音だった。
リーナは窓に映る自分の瞳を見た。紫の瞳が、夜の闇の中で微かに光っている。
帝都の地下から、微かな不協和音が鳴り続けていた。




