第40話 帝国の嘘序章
地震から七日が経った。
帝都イグナシオンの被害は軽微だった。シャンデリアの落下で怪我人が数名、古い商館の壁に亀裂が入った程度。しかし帝都の空気は変わっていた。あの夜の赤い月を見た者は、誰もが口をつぐんでいる。
帝国議会に、地震の調査報告書が提出された。
「結論から申し上げます。今回の地震は、帝都近郊の地盤が起こした自然現象であり、星脈の異常との関連は確認されておりません」
壇上に立つのは、帝国魔導院の研究主任。エーデルシュタイン公爵家の息がかかった学者だ。
リーナは傍聴席から、研究主任の核紋を視た。
瞳が金色に変わる。
不協和音が、即座に鳴り響いた。
「自然現象」は嘘。「星脈の異常との関連は確認されていない」も嘘。報告書の一言一言が、耳障りな不協和音に満ちている。
この研究主任は知っている。星脈が軋んでいることを。大陸全土で同時に異変が起きたことを。そして、それを隠すよう指示されていることを。
リーナは傍聴席の端に座るルシアンに目配せした。ルシアンの碧眼が微かに頷く。
* * *
議会は続いた。
地震の調査報告に続き、ディートリヒの軍事判断ミスの責任追及が始まった。
「ヴァレンシュタイン家騎士団長の国境配備判断について、帝国議会として正式な問責を求めます」
老練な議員が立ち上がった。先週の追及を引き継ぐ形だ。
ディートリヒが壇上に立った。一週間前より表情は整っている。おそらく父親のヴァレンシュタイン公爵と対策を練ったのだろう。
「北東国境の損害については、騎士団長として責任を認めます。再発防止策として……」
リーナの鑑譜眼が反応した。「責任を認める」の部分には不協和音がない。本心から認めている。しかし「再発防止策」の旋律に、微かな歪みが混じっていた。
再発防止策は、まだ具体化していない。言葉だけの空手形だ。
「しかし、二重条約の件についてはどうか。シュヴァルツベルク家が提出した証拠によれば、秘密覚書にはヴァレンシュタイン家の承認印がある」
議場の空気が張り詰めた。
「その覚書は……」
ディートリヒの声が、一瞬詰まった。
「外交局から回された書類の束に含まれていたものであり、個別の精査が間に合わなかった。帝国への損害を招いたことは事実であり、その責任は認めます」
議場にざわめきが走った。
リーナの鑑譜眼が捉えた旋律。「個別の精査が間に合わなかった」は嘘ではない。本当に精査しなかった。しかしそれは言い訳にもならない。騎士団長の職責において、署名した文書を精査しないことは重大な過失だ。
老議員が追い打ちをかけた。
「つまり騎士団長は、文書の中身を確認せずにヴァレンシュタインの名で承認印を押したということですな」
「……そうなります」
ディートリヒの拳が震えた。壇上の照明がその顔を照らしている。金髪の騎士団長の頬に、微かに影が落ちていた。
議場の一角で、扇子の向こうに囁き声が広がった。
「ヴァレンシュタインの跡取りが、書類も読まずに判を押していたとは」
「嘘を見抜く目があった頃は、こんなことにはならなかったそうですぞ」
「ああ、あの伯爵令嬢を、自分で追い出したのだから、自業自得ですな」
リーナの耳にその囁きが届いた。鑑譜眼を使うまでもなく、帝都の貴族たちの評価は明らかだった。
* * *
議会が散会した後。
クレスタフェルデ伯爵邸の書斎で、リーナとルシアンは向かい合っていた。
「議会での追及で、ディートリヒの外交能力への信頼は地に落ちましたわ」
リーナは紅茶のカップを手に、静かに言った。
「軍事判断ミスと盲目の承認。二つの失態が重なって、ヴァレンシュタイン家内部でもディートリヒへの風当たりが強まっている。ひとまず、これで一区切りですわね」
「だが、本題はそこじゃないだろう」
ルシアンの碧眼が、真っ直ぐリーナを見ていた。口調は「俺」。二人きりの書斎。
「地震の調査報告。嘘だらけだ。お前の鑑譜眼が反応したのは見えていた」
「ええ」
リーナは紅茶を置き、指を組んだ。
「帝国は星脈異常を知っていますわ。知っていて『自然災害』と発表した。研究主任の核紋には、隠蔽の旋律がはっきりと鳴っていました」
「指示したのは」
「おそらく、ヴァレンシュタイン家」
リーナの紫の瞳が、微かに光った。
ルシアンは腕を組んだ。
「封印研究を独占し、情報を統制している。つまり」
「帝国中の誰にも、封印の本当の状態を知らせていない。星脈が軋んでいることも、大陸全土の異変も、全て隠蔽している」
リーナは立ち上がり、書斎の窓際に歩いた。
何も変わらない日常。でもその下で、星脈は軋み続けている。
「わたしの鑑譜眼は、ここまで成長しましたわ」
リーナは自分の手を見下ろした。
「単音から、和声、そして残響。鑑譜眼は三段階の進化を終えましたわ」
リーナは振り返った。夕日を背にした彼女の紫の瞳が、ルシアンの碧眼を真っ直ぐに見つめた。
「でも、まだ足りない。帝国の嘘は、わたしが想像していたよりもっと深く、もっと古い」
* * *
ルシアンが立ち上がり、リーナの隣に歩いた。帝都の街灯が一つずつ灯り始めている。
「ヴァレンシュタイン家の核紋に、残響を使うつもりか」
「ええ」
「ディートリヒの核紋に触れれば」
「ヴァレンシュタイン家が何を隠してきたか、その旋律が聴こえるはずですわ。封印研究の独占、情報統制、そして百年前の大崩落の真実」
ルシアンの手が、リーナの肩に触れた。外套をかけるでもなく、ただ触れただけ。
「危険だ」
「わかっていますわ」
「ヴァレンシュタイン家を敵に回すことになる」
「とっくに敵ですわ。わたしを捨てた瞬間から」
リーナの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「それに、わたしの隣には冷血公子がいますもの。闇属性の力で、少しくらい守ってくださるのでしょう?」
「面倒な女だ」
「褒め言葉として受け取りますわ」
ルシアンの手がリーナの肩から離れた。けれどリーナの鑑譜眼は使わなくても、ルシアンの旋律が穏やかな和音を奏でていることがわかった。あの夜バルコニーで聴いた、完全な和音。
「帝国の嘘は、もっと深く、もっと古い」
リーナは窓に映る自分の紫の瞳を見つめた。
「ヴァレンシュタイン家の核紋に刻まれた残響を聴けば、百年前の真実にたどり着ける。——次の舞台は、宮廷ではありませんわ」
帝都の街灯が夜の闇に点々と並んでいる。その向こうに、聖域山脈の稜線が微かに見えた。
「帝国の歴史そのものですわ」
リーナの紫の瞳が、窓ガラスの上で、一瞬だけ金色に光った。




