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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第39話 告白と和音

地震の余韻が、まだ大広間に残っていた。


 砕けたグラスの破片が床に散らばり、蝋燭の半分は消えている。使用人たちが慌ただしく片づけに動き、貴族たちは壁際で不安そうに囁き合っていた。


 リーナはバルコニーの手すりに背を預けたまま、赤い月を見上げていた。ルシアンの外套が肩を覆い、夜風の冷たさを遮っている。


 こめかみの痛みは、少しだけ引いていた。


「中に戻らなくていいのか」


 ルシアンの声。低く、短い。口調は「俺」のほうだ。バルコニーには二人きり。大広間の喧騒は、分厚いガラス戸の向こうに遠い。


「もう少しだけ。頭が痛いのですわ」


「鑑譜眼の使いすぎだ」


「ええ。大地の旋律を五つ同時に聴いたのは、さすがに無茶でしたわね」


 リーナは苦笑した。ルシアンが手すりに腕を置き、リーナの隣に立った。肩が触れるほど近い距離。


 夜風が二人の間を吹き抜けた。リーナの銀白のドレスの裾が揺れ、ルシアンの黒い外套が翻る。


 沈黙が落ちた。心地よい沈黙だった。


 大広間のざわめきが遠くに聴こえる。赤い月の光がバルコニーを赤銅色に染め、二人の影が石の床に長く伸びていた。


「リーナ」


 名前で呼ばれた。


 リーナは少し驚いて顔を上げた。ルシアンが名前を呼ぶことは、ほとんどない。いつも「お前」か、公的な場では「クレスタフェルデ嬢」だ。


 ルシアンは月を見ていた。碧眼に赤い月光が映り込んでいる。その横顔は、冷血公子の異名が嘘のように——静かだった。


「俺は、お前を利用するつもりだった」


「知っていますわ」


「鑑譜眼が必要だった。シュヴァルツベルク家の交易を守るために、お前の目を道具にするつもりだった」


「それも知っていますわ。最初の日から、あなたの核紋にはその旋律が鳴っていましたもの」


 リーナの声は穏やかだった。責める色はない。


 ルシアンの指が手すりを掴んだ。硬い指が、石の手すりを白くなるほど握りしめている。


「面倒な女だと思った」


「何度も言われましたわね」


「今は——」


 言葉が止まった。


 リーナはルシアンを見た。夜風に黒髪が揺れるルシアンの横顔。碧眼が赤い月から逸れ、リーナの紫の瞳を捉えた。


「今は、面倒でもいいと思っている」


 リーナの心臓が、一拍跳ねた。


 鑑譜眼が、意図せず発動した。


 瞳が紫から金色に変わる。ルシアンの核紋から旋律が流れ込んでくる——聴き慣れた闇属性の低い音色。短調の旋律。けれど、今夜のルシアンの旋律は、今まで聴いたどの瞬間とも違っていた。


 完全な和音。


 不協和音が、一つもない。


 利用の意図も、計算も、警戒も——全て消えている。残っているのは、澄み切った一つの旋律だけ。嘘のない、まっすぐな音。


 リーナは息を呑んだ。


 鑑譜眼を通して人の核紋を視てきた。何百人もの旋律を聴いてきた。嘘の不協和音、善意の甘い歪み、無自覚な霞——どれも、完全な純音ではなかった。


 けれどルシアンの今の旋律には、雑音が一つもない。


 これが——本気の旋律。


「ルシアン様」


 声が掠れた。リーナは慌てて咳払いをした。


「……随分と、急な告白ですわね」


「告白のつもりはなかった」


「では何のつもりですの」


「事実を言っただけだ」


 ルシアンの口元が、ほんの僅かだけ歪んだ。笑みとも皮肉ともつかない、不器用な表情。


「お前が面倒な女だということも、面倒でもいいと思っていることも。どちらも事実だ」


 リーナの耳が赤くなった。イヤーカフの下、耳たぶの先まで熱が広がっている。銀白のドレスの胸元で、心臓が早い拍を打っていた。


 鑑譜眼はまだ発動している。ルシアンの旋律が途切れない。完全な和音が、ずっと鳴り続けている。


 嘘は、どこにもない。


「……面倒で、すみませんわね」


 言葉は平静を装ったが、声は装いきれなかった。少しだけ震えている。


「謝るな」


 ルシアンの手が、リーナの手に触れた。


 手すりの上で重なる指。冷たい石の上に、二人の体温が混じった。ルシアンの手は大きく、硬く、剣だこがあった。リーナの手は細く、白く、指先だけが微かに震えていた。


「そのままでいい」


 短い言葉だった。でも、その三語に含まれた旋律を、リーナの鑑譜眼は完璧に聴き取っていた。


 完全な和音。揺らぎのない、一本の真っ直ぐな旋律。


 リーナは唇を噛んだ。目を伏せた。睫毛の影がバルコニーの赤い月光に揺れた。


 手は——離れなかった。


* * *


 どれくらいそうしていたのか。


 赤い月が雲に隠れ、バルコニーが暗くなった。大広間のざわめきが少しずつ落ち着いてきている。使用人たちが蝋燭を補充し、割れたグラスの破片を掃き終えたようだった。


 リーナの鑑譜眼が、ようやく紫に戻った。ルシアンの旋律が遠ざかり、代わりに夜風の音だけが耳に残る。


 でも、手はまだ重なっていた。


「……ルシアン様」


「なんだ」


「鑑譜眼を切りましたけれど——あなたの旋律が、まだ聴こえる気がしますの」


「気のせいだろ」


「いいえ。鑑譜眼を通さなくても聴こえる旋律は、初めてですわ」


 リーナは顔を上げた。紫の瞳がルシアンの碧眼を見上げる。耳はまだ赤い。頬も少しだけ。


「ルシアンの旋律が、完全な和音に変わった」


 初めて、敬称を落とした。


「もう嘘はどこにもない。——わたしの心臓が鳴らすこの音は、不協和音ではありませんわよね」


 ルシアンは答えなかった。代わりに、重なっていた手をほんの少しだけ握った。強くはない。でも、確かに。


 リーナの睫毛が震えた。


「……きっと、これが恋の旋律ですわ」


 小さな声だった。夜風に消えそうなほど。


 ルシアンの碧眼が、一瞬だけ揺れた。それから、視線を逸らした。耳の端が赤い。冷血公子の仮面が、ほんの僅かだけ剥がれていた。


「……帰るぞ」


「ええ」


 二人はバルコニーを離れた。


 手は繋いだままだった。大広間に戻る直前で、ルシアンの手が離れた。口調が「私」に切り替わる。


「お疲れのようですね、クレスタフェルデ嬢。馬車を手配しましょう」


「ありがとうございます、ルシアン様」


 リーナは微笑んだ。いつもの鑑譜師の令嬢の顔。完璧な社交の仮面。


 でも、外套の下に隠した右手は、まだルシアンの指の温度を覚えていた。石の手すりよりもずっと温かかった、あの手を。


 馬車に揺られながら、リーナはイヤーカフに触れた。


 ルシアンの完全な和音が、まだ耳の奥で鳴り止まない。鑑譜眼を切っても消えない旋律。嘘のない、まっすぐな音。


 それが恋の旋律なのだとしたら——わたしの鑑譜眼は、今夜、最も美しい音を聴いたのだ。

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