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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第38話 大地の不協和音

宮廷舞踏会の夜。帝都イグナシオンの大広間は、千本の蝋燭と五大公爵家の紋章旗で飾り立てられていた。


 楽団がワルツを奏でている。弦楽器の旋律が天井に反響し、大理石の床を滑るドレスの裾と軍靴の足音と混じり合う。帝国の貴族たちは杯を掲げ、笑い、囁き合っていた。


 リーナは銀白のドレスに身を包み、ルシアンの手を取って広間の中央に歩み出た。


「踊れるのか」


 ルシアンの低い声。公的な場の「私」ではなく、耳元でだけ聴こえる「俺」の口調。


「前世の記憶がありますもの。ワルツくらい踊れますわ」


「前世か。厄介だな」


「あら、前世がなければ、鑑譜眼も使えませんのよ?」


 ルシアンの手がリーナの腰に触れた。硬い指だった。剣を握り慣れた手。リーナの右手がルシアンの肩に置かれ、二人の身体がワルツの三拍子に乗って動き始める。


 大広間の視線が集まった。「冷血公子と鑑譜師の令嬢」と囁かれる、帝都で最も噂される組み合わせ。好奇と嫉妬と畏怖が入り混じった視線を浴びながら、リーナはルシアンの闇属性の旋律を微かに感じていた。


 低く、静かに響く短調。でも今夜は、その旋律の底に温かな長調が混じっている。


 三拍子。ワルツのステップ。楽団の弦楽器が高音部を奏でる。


 その時。


 リーナの鑑譜眼が、異音を拾った。


 楽団の音ではない。人間の核紋から発する旋律でもない。もっと深く、もっと低い場所から這い上がってくる不協和音。


 大地の底から。


 リーナの瞳が金色に変わった。


「ルシアン、止まって」


 ワルツの途中で足を止める。ルシアンの碧眼が鋭くなった。


「どうした」


「聴こえますの。大地の底から、不協和音が」


 イヤーカフが熱くなっている。星脈鉄の補助具が大地の旋律に共鳴している。リーナの鑑譜眼が、人間の核紋ではなく、この大地そのものに流れる星脈の旋律を初めて捉えていた。


 軋み。歪み。断裂。


 地下深くを流れる星脈が、悲鳴のような音を上げている。


「まさか……」


 直後。


 大広間が揺れた。


 シャンデリアが振り子のように揺れ、蝋燭が次々と落ちる。グラスが卓上で跳ね、床に砕けた。悲鳴が上がった。貴族たちが足をもつれさせ、壁際に身を寄せる。


 地震だ。


 ルシアンの腕がリーナの腰を掴んだ。


「伏せろ」


「待って、まだ聴こえますわ」


 リーナは目を閉じなかった。金色の瞳が大広間を見渡す。人間たちの核紋がパニックで乱れ、旋律が無秩序に暴れている。その下から、大地の不協和音が地鳴りのように這い上がってくる。


 星脈が軋んでいる。


 普通の地震ではない。星脈そのものが歪んでいる。


 揺れは十数秒で収まった。しかしリーナの耳には、まだ不協和音が鳴り続けていた。


 大広間がざわめいている。貴族の婦人が卒倒し、侍女たちが駆け寄る。騎士たちが出入り口に走り、被害の確認に散っていく。楽団員が弦の切れたヴァイオリンを呆然と見つめていた。


「怪我はないか」


 ルシアンの腕がまだリーナの腰にあった。


「ございませんわ。でもルシアン様、この不協和音は普通ではありませんの。人の嘘ではない。大地そのものが鳴っていますわ」


 リーナはルシアンの腕の中から身を起こし、大広間を見回した。割れたシャンデリアの破片がドレスの裾に散らばっている。蝋燭の蝋が床に溶け出し、甘い匂いが漂っていた。


* * *


 混乱する大広間を抜け、ルシアンがリーナをバルコニーに連れ出した。


 夜空を見上げて、リーナは息を呑んだ。


 月が赤い。


 通常の白い月光ではなく、薄い赤銅色に染まった月が、帝都の上に浮かんでいた。星脈の乱れが大気にまで影響している証拠だ。


「ルシアン様。大地の旋律が、まだ鳴り止みませんわ」


 リーナはバルコニーの手すりに両手をつき、鑑譜眼の感度を最大まで引き上げた。イヤーカフが灼けるように熱い。


 聴こえた。


 帝都だけではない。西から、東から、北から。大陸の複数の地点から、同時に不協和音が響いている。一箇所の地盤が揺れたのではない。大陸全土の星脈が、同時に軋んでいる。


「複数の方角から同時に聴こえますわ」


 リーナの声が震えた。能力の限界に近い広範囲の聴取が、こめかみに鈍い痛みを走らせていた。


「全部で四つ。いいえ、五つですわ。西の旋律が最も大きくて、東は微かだけれど確実に鳴っている。北にも二つ」


 ルシアンがリーナの肩を支えた。


「無理をするな。鑑譜眼を切れ」


「もう少しだけ……」


 リーナは歯を食いしばり、大地の旋律に集中した。


 この不協和音のパターン。リーナの前世の記憶、ヴァイオリニストとしての絶対音感が、ある一つの共通点を検知した。五つの不協和音は、全て同じ周波数を基底にしている。同じ「原因」から派生した軋み。


 つまり、偶然の地震ではない。


 何かが、大陸全土の星脈を同時に歪ませている。


「ルシアン様」


 リーナは鑑譜眼を切った。瞳が金色から紫に戻る。こめかみの痛みが脈打つように響いていた。


「これは普通の地震ではありませんわ」


「どういうことだ」


「星脈そのものが軋んでいる。一箇所ではなく、大陸全土で同時に。封印が劣化しているのではないかしら」


 ルシアンの碧眼が、鋭く細まった。


「封印か。聖域山脈の?」


「ええ。百年前に大聖女アリーシアが施した封印。もしあの封印が弱まっているなら……」


 リーナは赤い月を見上げた。不吉な光が彼女の銀白のドレスを赤銅色に染めている。


「この不協和音は、百年前の大崩落と同じ旋律ではないかしら」


 バルコニーの下から、貴族たちのざわめきが聴こえてきた。シャンデリアの破片を片づける使用人たちの足音。誰かが泣いている声。


 リーナはイヤーカフに触れた。まだ温かい。大地の不協和音の残滓が、星脈鉄を通じて微かに伝わっていた。


* * *


 バルコニーに冷たい夜風が吹き抜けた。


 赤い月の下で、ルシアンがリーナの肩に外套をかけた。無言のまま。リーナはそれを拒まず、外套の襟を引き寄せた。


「大陸全土が同時に軋んでいる」


 リーナの声は静かだったが、その奥に確信があった。


「西からも、東からも、北からも。百年前の大崩落と同じ旋律——これは、封印の劣化ですわ。個人の嘘でも、国家の嘘でもない。大地そのものが、何かを訴えている」


 ルシアンは黙って夜空を見ていた。赤い月明かりが、二人の影を長くバルコニーに落としている。


「帝国は、この異変を知っているのかしら。知っていて隠しているのかしら」


 その問いに、ルシアンは答えなかった。


 リーナの紫の瞳が、赤い月を映して揺れた。大地の不協和音が、まだ耳の底で低く唸り続けていた。

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