第37話 ディートリヒの軍事判断ミス
報告書が帝国議会に提出されたのは、条約交渉から三日後のことだった。
帝国北東部、連合王国群との国境地帯。ヴァレンシュタイン家が統べる帝国騎士団の第三遠征隊が、連合側の伏兵に挟撃された。死者十二名、負傷者四十名以上。帝国騎士団にとって、この十年で最大の損害だった。
原因は、兵力配置の判断ミス。
帝都イグナシオンの議事堂は、重い怒号に包まれていた。
* * *
「ディートリヒ・ヴァレンシュタイン騎士団長に問う! 北東国境における兵力配置は誰の判断だ!」
老練な議員の声が、円形の議場に響き渡った。
壇上に立つディートリヒは、金髪を後ろに撫でつけ、背筋を伸ばしていた。蒼い軍服の胸元にはヴァレンシュタイン家の紋章。しかしその顎は、微かに強張っている。
「私の判断です」
「第三遠征隊に配備された兵力は、定数の六割だった。なぜだ」
「連合側のスパイから得た情報に基づき、北東国境の脅威度は低いと判断しました」
議場にざわめきが走った。
「スパイの情報だと? その情報が偽りだった可能性は検証したのか!」
ディートリヒの唇が引き結ばれた。
「検証は……行いませんでした」
議場の空気が、一段冷えた。
* * *
同じ頃。クレスタフェルデ伯爵邸の応接間で、リーナは報告書の写しを読んでいた。
ルシアンが用意した情報だ。議会の速記録と、北東国境の被害報告。リーナは羊皮紙の上に指を這わせ、鑑譜眼で旋律を探った。
写しには不協和音がない。記録そのものは正確だ。だが、一箇所——「スパイの情報に基づく」という文言に、リーナの耳が反応した。
「ルシアン様。このスパイの情報というのは」
「連合側の二重スパイだ。ヴァレンシュタインが直接管理していた情報源で、北東国境の兵力配置に関する偽情報を流した」
「二重スパイの嘘を、ディートリヒは見抜けなかったのですわね」
リーナは羊皮紙を卓上に置いた。紅茶のカップに手を伸ばしたが、途中で止めた。
「わたしがまだ婚約者だった頃——重要な会談の前には、必ず相手の核紋を視ていましたわ。スパイからの報告にも、わたしが同席して嘘の有無を確認していた」
「知っている」
「その『事前の嘘チェック』がなくなった結果が、これですわ」
リーナの声に感情はなかった。淡々と事実を述べているだけだ。しかしルシアンは、彼女の指先がカップの縁を撫でる仕草に、わずかな揺れを見た。
「お前のせいじゃない」
「わかっていますわ。わたしを切り捨てたのはあの方の判断ですもの」
* * *
議会の追及は止まらなかった。
翌日、リーナはルシアンの手配で議会の傍聴席に座っていた。非公式の立場ではあるが、シュヴァルツベルク家の招待枠として堂々と入場している。
壇上のディートリヒの核紋が、リーナの鑑譜眼に映った。
金色に変わった瞳で視ると、ディートリヒの旋律は以前より濁っていた。焦りと苛立ちが低音部で絡み合い、その下にもう一つ、震えるような旋律が潜んでいる。ヴァレンシュタイン家の名が揺らぐことへの、深い動揺。
「騎士団長は、スパイの真偽を確認する手段を持たなかったのか」
老議員の追及に、ディートリヒは拳を握った。
「確認手段は、現在検討中です」
不協和音が鳴った。「検討中」という言葉に。
嘘だ、とリーナは思った。確認手段など、検討していない。検討する必要がないと思っている。なぜなら、かつてその手段はリーナの鑑譜眼だったから。
しかしそれを認めることは、婚約破棄が誤りだったと認めることに等しい。
ディートリヒには、それができない。
「ここからが本番ですわ」
リーナは傍聴席で小さく呟き、手元の書類を開いた。条約交渉の場で聴き取った情報をまとめた報告書。ルシアンの名義で議会に提出する手はずになっている。
二重条約の存在。帝国と連合の双方が秘密裏に取り交わした覚書。そして、その覚書にディートリヒ・ヴァレンシュタインの承認印が押されているという事実。
ルシアンが壇上に立った。シュヴァルツベルク家次男として、議会での発言権を持つ。
「議長。帝国と連合の間に、公式条約とは別の覚書が存在します」
議場が静まり返った。
「当家の調査により、国境地帯の兵力上限に関する除外規定を含む秘密覚書が確認されました。この覚書には、ヴァレンシュタイン家当主代理として、ディートリヒ騎士団長の承認印が押されています」
ディートリヒの顔から血の気が引いた。
「私は……その覚書の中身を」
言葉が途切れた。議場の全視線が壇上に集中している。
リーナの鑑譜眼が、ディートリヒの核紋を捉えた。旋律が激しく乱れている。覚書に印を押したこと自体は嘘ではない。つまり本当に押している。だが中身を精査せずに押したことへの後悔と、それを認められない矜持が、不協和音となって軋んでいた。
「騎士団長は覚書の内容を精査せず承認したのか」
老議員の声が、冷たく響いた。
「いや、私は……」
ディートリヒの言葉が再び途切れた。拳が震えている。
* * *
議会が散会した後、リーナは議事堂の廊下を歩いていた。
夕方の光が石壁を赤く染めている。傍聴席から出てきたリーナの前を、ディートリヒが通り過ぎた。
視線は合わなかった。
だが、リーナの鑑譜眼は、すれ違いざまにディートリヒの核紋の旋律を一瞬だけ聴いた。
軋み。怒り。そして、どこかに押し込められた後悔のような音。
リーナは足を止めず、廊下を抜けた。
外でルシアンが待っていた。馬車の扉を開け、リーナが乗り込むのを待つ。二人きりになると、ルシアンの口調が切り替わった。
「やりすぎたか」
「いいえ。事実を提示しただけですわ」
リーナはドレスの裾を整え、馬車の座席に深く腰を下ろした。
「あの方は嘘を見抜く目を、自ら手放したのですわ。軍事判断ミスも、盲目の承認も、全てあの夜の決断の結果ですもの」
「同情しているのか」
「まさか。同情は、反省できる人間にするものですわ」
リーナの紫の瞳が、窓の外に向いた。
「あの方の核紋には、まだ一片の反省も聴こえませんでしたもの。軋んでいるのは矜持だけ。過ちを認める旋律は、どこにもありませんでしたわ」
馬車が走り出す。石畳の振動が足元から伝わってきた。
「ディートリヒの旋律が、帝都中に軋みを広げていますわ」
リーナは窓の外に目を向けた。帝都の尖塔が夕闇に沈んでいく。
「けれどこれは、まだ序の口。ヴァレンシュタイン家が隠しているものは、ディートリヒの判断ミスよりもずっと深いところにある」
ルシアンは答えず、リーナの横顔を見ていた。
馬車の窓に映る紫の瞳が、夕陽の残光を受けて、ほんの一瞬だけ金色に光った。




