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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第36話 条約交渉への参加

帝都イグナシオンの外交館。五大公爵家の紋章が壁を飾る石造りの建物だった。


 長卓の上には羊皮紙の束と銀のインク壺が整然と並んでいる。帝国と連合王国群の条約再交渉——半年に一度の定例だが、今回は空気が違った。


「リーナ。席はここだ」


 ルシアンが長卓の端に用意された椅子を指し示した。公的な場だから、口調は冷淡なまま。リーナは淡い紫のドレスの裾を押さえて腰を下ろした。


 非公式アドバイザー。名目上はシュヴァルツベルク家の書記官補佐だが、この場にいる全員が、リーナの鑑譜眼の噂を知っている。


「お嬢様方が外交の席にいらっしゃるとは、帝国もずいぶんと風通しがよくなりましたな」


 帝国側の外交官、白髪の老人がにこやかに声をかけてきた。笑顔の裏に探るような視線がある。


「まあ。わたくし、書類の整理が得意なだけですのよ」


 リーナは微笑んだ。視線を長卓の反対側に移す。


 連合王国群の交渉団が着席しはじめていた。二人。フィオーレ王国の外交官と、マルセイド公国の交易担当。帝国側は三人——先ほどの白髪の老人、若い外交次官、そしてヴァレンシュタイン家から派遣された軍事顧問。


 五人の核紋が、まだ静かに脈打っている。


 リーナは深く息を吸い、鑑譜眼の焦点を合わせた。


* * *


 交渉が始まった。


 議題は、帝国と連合の国境地帯における交易関税の見直し。表面上は穏やかな協議だが、一言ごとに駆け引きが挟まれる。


「帝国側としては、関税率の据え置きを提案いたします」


 白髪の外交官が切り出した。リーナの瞳が、紫から淡い金色へ変わる。


 旋律が聴こえた。


 白髪の外交官の核紋から流れる音——据え置きという言葉に不協和音はない。本心だ。しかし、その奥に別の旋律が重なっている。薄い、霞のような音。何かを隠している。


 同時に、連合側のフィオーレ外交官の核紋にも耳を傾ける。


 こちらも一見穏やかな旋律だが、三拍目に引っかかる半音がある。何かを知っていて、知らないふりをしている。


 リーナは卓上の羊皮紙に視線を落としたまま、五人分の旋律を整理した。


「フィオーレとしても、据え置きに異論はございません。ただし——」


 フィオーレ外交官が条件を付け加えた。その瞬間、マルセイド公国の担当者の核紋に鋭い不協和音が走った。


 リーナの指が、手元の羊皮紙の端をわずかに折った。ルシアンに向けた合図。


「交渉は順調ですわね」


 休憩時間に入ると、リーナはルシアンの隣に歩み寄った。周囲に人の耳がないことを確認してから、声を落とす。


「五人のうち、旋律が濁っているのは三人ですわ」


 ルシアンの碧眼が細くなった。


「誰だ」


「帝国側の軍事顧問。あの方の核紋から、二重条約の旋律が聴こえましたの。既存の条約とは別に、もう一つの取り決めが存在することを知りながら、この場に持ち出さない」


 リーナは指を折って数えた。


「連合側のマルセイド担当。この方は連合内部の裏取引を抱えていますわ。フィオーレとの関税配分について、表の条約とは別の合意がある。そして——」


「三人目は」


「帝国側の白髪の外交官。あの方は嘘をついているわけではないけれど、知っていることを意図的に語っていませんわ。二重条約の存在を認識しながら、見て見ぬふりをしている」


 ルシアンは腕を組んだ。長い沈黙のあと、低い声が落ちた。


「帝国の軍事顧問は、ヴァレンシュタイン家の派遣だ」


「ええ」


「つまりヴァレンシュタインが二重条約に関与している可能性がある」


「少なくとも、知っていて黙認していますわ」


 ルシアンの顎が微かに引き締まった。


* * *


 午後の交渉が再開された。


 リーナは鑑譜眼の感度を上げた。イヤーカフ型の補助具が微かに温かくなる。星脈鉄が共鳴し、核紋の旋律をより鮮明に増幅していた。


 帝国側の軍事顧問が発言する。国境地帯の兵力配置に関する条項の確認。


「現行条約第七条に基づき、国境から十里以内の駐屯兵力は——」


 不協和音が三つ重なった。


 リーナの瞳が金色に全開する。第七条の文言を読み上げる軍事顧問の旋律の裏に、まったく別の旋律が走っていた。第七条には記されていない付帯条項——帝国と連合の間で秘密裏に取り交わされた覚書。兵力上限の除外規定。


 そして同時に、連合側のマルセイド担当の核紋が共鳴するように震えた。この担当者も、除外規定の存在を知っている。


 五人分の旋律が、リーナの頭の中で一つの絵を描き出す。


 二重条約は、帝国と連合の双方が承知している。しかし互いに「自分だけが知っている」と思い込んでいる。その相互不信の上に、表の条約が載っている。


 嘘の上に嘘を重ねた、砂上の楼閣。


 リーナは手元の羊皮紙に、短い一文を書き込んだ。ルシアンの目だけに見えるように。


『二重条約の承認印は、ディートリヒ・ヴァレンシュタイン』


 ルシアンの指が、卓の下で一度だけ止まった。


* * *


 交渉が終わり、外交館の回廊を二人で歩いた。


「五人の旋律を同時に聴いたのは、初めてでしたわ」


 リーナは壁に寄りかかり、こめかみを押さえた。


 ルシアンが足を止めた。リーナを見下ろす碧眼に、計算ではない何かが浮かんでいた。


「無理をするな」


「無理ではありませんわ。必要なことですもの」


「同じ意味だ」


 ルシアンは短く息をつき、外套をリーナの肩にかけた。石造りの回廊は、夕方になると冷える。


 リーナの耳がほんのわずかに赤くなったが、声には出さなかった。


「ルシアン様」


「なんだ」


「この交渉の嘘を全て暴けば——ディートリヒの外交判断ミスが白日の下に晒されますわ」


 ルシアンの口元が、薄く引き結ばれた。


「それは脅しか、予告か」


「事実ですわ」


「二重条約の承認印を押したのはディートリヒ。あの方は中身を精査せず、ヴァレンシュタインの名前だけで判を押した。——嘘を見抜く目を自ら手放した代償が、国家規模で返ってきますわね」


 回廊の奥から、外交官たちの足音が近づいてくる。ルシアンの口調が切り替わった。


「書記官補佐殿、本日はご苦労でした」


「いいえ、こちらこそ」


 リーナは微笑を浮かべ、外套の下で自分の手を握った。


 五人分の不協和音が、まだ耳の奥で鳴り止まない。国家の嘘は、個人の嘘よりずっと深く、ずっと重い。


 けれど、わたしの鑑譜眼は、その全てを聴き分けた。


 次に暴くべきは、ディートリヒが盲目のまま押した、あの承認印の先にある真実だ。

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