第35話 残響の試み
書斎の扉が閉まると、静寂が降りた。
午後の陽射しが窓から差し込み、机の上に光の四角を作っている。リーナは机を挟んでルシアンと向かい合って座っていた。
使用人には「商談のため二時間は入るな」と伝えてある。
「準備はいいか」
ルシアンの声は低く、落ち着いていた。手袋は外されて、机の上に置かれている。
「ええ」
リーナも手袋を外した。右耳のイヤーカフが、蝋燭の光を反射している。
「核紋に触れますわ。右手を出していただけますか」
ルシアンが右手を机の上に置いた。大きな手だった。剣のまめが指の付け根に並んでいる。闇属性A級の核紋を宿す手。
リーナは自分の右手を、ルシアンの手の甲に重ねた。
指先が触れた瞬間、体温が伝わった。ルシアンの手は思ったより温かい。
瞳が金色に変わった。
イヤーカフが振動した。ルシアンの核紋の旋律が一気に流れ込んでくる。澄んだ短調。嘘のない、まっすぐな音。
リーナは鑑譜眼の焦点を、さらに深くに合わせた。現在の旋律の下に、古い層がある。核紋に刻まれた過去の記録。重ねた手のひらから、イヤーカフの共鳴が橋を架けるように深層に届く。
残響が、聴こえた。
* * *
核紋の奥に、古い旋律の残響が見えた。映像と音が同時に流れ込む。
幼い少年が立っていた。
黒い髪、碧い目。五歳か六歳の、小さなルシアン。広い部屋の真ん中に一人で立ち、自分より遥かに大きな大人たちに囲まれている。
「闇属性だと。——忌まわしい」
男の声。白髪の老人。おそらく先代の当主。声に嫌悪の旋律が滲んでいた。
少年ルシアンの核紋が萎縮している。闇属性の旋律が体の中で暴れているのに、誰もそれを受け止めてくれない。部屋の隅で、兄らしい少年が目を逸らしている。
場面が変わった。残響が次の記憶に飛ぶ。
十歳前後のルシアン。公爵邸の裏庭で、兄と向かい合っている。
「お前は日陰で生きろ。表は俺が継ぐ」
兄の声には悪意がなかった。むしろ、事実を告げているだけの平坦な旋律。だがその言葉が、少年ルシアンの核紋に深い傷として刻まれていた。
日陰。影。裏。
その言葉を受け入れたルシアンの核紋から、温かい旋律が一つ消えた。感情を殺すことを覚えた瞬間の残響。
さらに深く。十五歳のルシアン。帝国の「影」としての最初の任務を受ける場面。父アルベルトが命じる。
「シュヴァルツベルクの次男として、帝国の暗部を担え」
少年の核紋に、覚悟の旋律が刻まれた。冷たく、硬く、孤独な音。誰にも見せない決意。影の中で一人、生きていく覚悟。
* * *
リーナの目から、涙が一筋こぼれた。
残響は鮮明だった。どの記憶にも、嘘はなかった。ルシアンの核紋は常に正直で、苦しみも痛みも全て、歪めることなく刻んでいた。
「見るな」
ルシアンの声が、残響の音を断ち切った。
リーナの手が、ルシアンの手から引き離された。ルシアンが自分の手を引いたのだ。碧眼が鋭くリーナを見ている。
「過去は過去だ」
声は平坦だった。だが、手を引いた動作に力がこもっていた。
「……ルシアン様」
リーナの瞳は紫に戻っていたが、涙の跡が頬に残っている。拭おうとして、指が震えた。
「見たのか」
「聴きましたわ」
リーナは涙を袖で拭った。令嬢らしからぬ仕草だったが、構っていられなかった。
「あなたの過去の旋律は、とても——」
「言うな」
ルシアンが遮った。椅子の背にもたれ、天井を仰いでいる。碧眼が蝋燭の光を映しているが、その奥にある感情は読み取れない。鑑譜眼を使わなくても、ルシアンが動揺していることは分かった。
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺れている。窓の外から鳥の声が遠く聞こえた。
「残響は、使えますの」
リーナは声を整えた。涙を押さえ、分析者の顔に戻る。
「対象の核紋に直接触れれば、過去の記録が聴こえます。制約が二つ。触れる距離でなければならないことと、百年以上前の残響は消えていること。直近数十年であれば、鮮明に聴き取れますわ」
「……そうか」
「ルシアン様の核紋に、嘘の残響はありませんでしたわ」
リーナの声が、少しだけ柔らかくなった。
「あなたの過去の旋律は、全て本物でした。痛みも、覚悟も、孤独も。嘘のない、まっすぐな音ばかり」
ルシアンが天井から視線を戻した。碧眼がリーナを見つめている。
「お前は——泣くほどのことか」
「泣きましたわ」
リーナは頷いた。
「わたしの鑑譜眼は嘘を暴くための力ですけれど、嘘のない旋律を聴いた時の方が、胸に響きますの」
ルシアンが目を伏せた。手袋を取り上げ、ゆっくりと嵌めた。指先が微かに震えていることを、リーナは見ていた。
「ルシアン様」
「何だ」
「あなたの旋律は、闇の中でこそ美しいと、以前申し上げましたわね」
ルシアンが手袋を嵌める手を止めた。
「残響を聴いて、確信しましたの。あなたの核紋が短調なのは、闇属性だからではありませんわ。痛みを正面から受け止めて、一度も嘘で塗り潰さなかったからですの。それは、とても強い旋律ですわ」
ルシアンは何も言わなかった。手袋を嵌め終え、立ち上がった。
扉に向かう途中で、足を止めた。振り返らない。
「……面倒な女だ」
声が、わずかに掠れていた。
扉が閉じた。
* * *
ルシアンが帰った後、リーナは書斎の窓辺に立った。
残響能力は実証された。ルシアンの核紋から、二十年近い過去の記録を鮮明に聴き取ることができた。触れる距離という制約はあるが、聴こえる範囲は十分に広い。
次に聴くべき旋律は、決まっている。ディートリヒ・ヴァレンシュタイン。婚約破棄の本当の理由、二重条約への関与――全てが、あの核紋に刻まれているはずだ。
だが、問題がある。ディートリヒの核紋に触れるには、彼に近づかなければならない。
リーナはイヤーカフに触れた。銀白色の金属が、鈍く光っている。
方法は考えなければならない。だが、手段は必ず見つかる。
残響が聴こえた。ルシアンの過去の旋律は、まだ耳の奥で鳴っている。あの孤独な音が、リーナの胸を締めつけている。
次に聴くのは、嘘だ。嘘で塗り固められた旋律。
ディートリヒの核紋に触れる機会を、作らなければならない。
窓の外で、帝都の夕空が赤く染まっていた。




