第34話 補助具の完成
二週間が過ぎた。
シュヴァルツベルク公爵邸の工房から届けられた小箱を、リーナは自室で開けた。
イヤーカフが、黒い天鵞絨の上に載っていた。
銀白色の細い曲線。星脈鉄を薄く延ばし、精密に成形された装飾品。一見すると貴婦人がつける上品なアクセサリーにしか見えない。だが手に取ると、鉱石だった時と同じ密度を感じる重さがあった。
リーナは鏡の前に立ち、右耳にイヤーカフを装着した。
世界が、変わった。
瞳を金色に変える前から、微かな旋律が聴こえ始めていた。自室の壁の向こう側にいる使用人たちの核紋の気配。階下の厨房から漏れる会話の振動に乗った感情の波。今までは鑑譜眼を意識的に発動しなければ聴こえなかった音が、イヤーカフを通じて自然に耳に届いている。
「……すごいですわ」
リーナは窓を開けた。帝都イグナシオンの午後の雑踏が入り込んでくる。通りを歩く人々の核紋が、遠くからでもうっすらと聴こえた。嘘をついている者、本心を隠している者、何も考えずに歩いている者。旋律の種類が、今までより遥かに細かく聴き分けられる。
瞳を金色に変えた。
感度が、桁違いだった。
通りの向こう、三軒先の商店で交渉している男の核紋の不協和音まで聴こえる。値段を偽っている。隣の店の女主人は正直な商売をしている。その隣の——
リーナは目を閉じた。情報量が多すぎる。制御しなければ、頭痛が来る。
深く息を吐き、鑑譜眼の焦点を絞る練習を始めた。全てを聴くのではなく、聴きたい対象だけに集中する。イヤーカフは増幅器であって、フィルターではない。選択するのはリーナ自身の意志だ。
数分の練習で、焦点の絞り方を掴んだ。前世のオーケストラで、大合奏の中から特定の楽器の音だけを拾い上げる訓練と同じ要領だった。全体の和声を聴きつつ、意識を向けた対象だけを鮮明に浮かび上がらせる。
リーナは鏡で自分の右耳を確認した。銀白色のイヤーカフは、銀髪に溶け込んで目立たない。社交の場で身につけていても、装飾品としか思われないだろう。
* * *
補助具の性能をテストするため、リーナは伯爵邸の地下書庫に降りた。
クレスタフェルデ伯爵家は中堅貴族とはいえ、三百年の歴史がある。地下書庫には数世代分の契約書や取引記録が保管されていた。
リーナは一番古い棚に手を伸ばした。埃が舞い、蝋燭の灯りが棚の影で揺れた。
三十年前の交易契約書。父エーリヒが家督を継ぐ前、先代伯爵の時代に交わされた書類だ。羊皮紙はすでに黄ばみ、インクも褪色している。
指先を羊皮紙に這わせた。
以前の鑑譜眼では、ここまで古い文書の不協和音は聴き取れなかった。インクに残る嘘の痕跡は年月とともに薄れていくから。
だが今は違った。
イヤーカフが微かに振動した。星脈鉄の共鳴が、薄れた旋律を増幅する。
聴こえた。
第四条に、不協和音。三十年前のもの。当時の取引相手が産地を偽っていた痕跡が、褪色したインクの下から浮かび上がる。量はわずかだが、嘘の質は悪質だった。詐欺に近い改竄。
「三十年前の不正が、まだ聴こえますのね」
リーナは契約書を元に戻した。先代の時代の不正を今さら追及する意味はない。だがこれで証明された。補助具があれば、過去の嘘の痕跡を読み取れる。
そしてもう一つ、リーナが感じていた可能性がある。
文書ではなく、人間の核紋に直接触れた場合。その人物が過去に刻んだ嘘の「残響」が聴こえるかもしれない。
核紋は一生変わらない。嘘をつくたびに微かな歪みが刻まれ、それは年月とともに薄れはするが、完全には消えない。補助具で増幅すれば——
「残響」
リーナは呟いた。
まだ試していない。人間の核紋に直接触れて残響を聴くには、相手の協力が必要だ。そして最初に試す相手として、信頼できる人物が必要だった。
* * *
夕刻。ルシアンが伯爵邸を訪れた。
書斎に通されたルシアンは、リーナの右耳のイヤーカフに目を留めた。
「完成したか」
「ええ。素晴らしい出来ですわ。鍛冶師の方にお礼を申し上げてくださいませ」
リーナは補助具のテスト結果を報告した。感度の飛躍的向上、三十年前の文書からの不正検知。ルシアンは黙って聞いていたが、「残響」の話になった時、碧眼が鋭くなった。
「人間の核紋に触れて、過去の嘘を聴く」
「理論上は可能なはずですわ。文書で三十年前の痕跡が聴けたのですから、核紋に直接触れれば、もっと鮮明に聴こえる可能性がありますの」
「リスクは」
「分かりませんわ。まだ試したことがないので。長時間の鑑譜眼使用で頭痛が出ることは以前からありますけれど、残響がどの程度の負荷になるか、実際に試さないと判断できませんの」
ルシアンが腕を組んだ。書斎の窓から差す夕陽が、碧眼を琥珀色に染めている。
「どの程度の距離が必要だ」
「直接触れる距離ですわ。核紋に手を重ねる形で」
「試すか」
ルシアンの声は平坦だった。だが、リーナには分かった。彼が何を言おうとしているのか。
「ルシアン様。あなたの核紋で試させていただけますの?」
「俺の過去に、隠すものはない」
口調が「俺」に切り替わっていた。周囲に人がいないことを確認する必要もなく、自然に。
リーナは頷いた。残響能力の最初の試行を、ルシアンの核紋で行う。彼の過去にどんな旋律が刻まれているか、まだ分からない。
だが、ルシアンの核紋に嘘がないことは知っている。彼の旋律は、いつも澄んでいた。
「明日。ここで」
「承知しましたわ」
リーナはイヤーカフに触れた。銀白色の金属が、指先の温度を吸って微かに光った気がした。
残響。過去の嘘の痕跡を辿る力。
ヴァレンシュタイン家には何十年分もの嘘が刻まれているはずだ。ディートリヒの核紋に触れることができれば、婚約破棄の本当の理由も、二重条約の全貌も、この帝国を蝕む嘘の根源も、全て聴こえるかもしれない。
そのために、まずルシアンの核紋で残響の手応えを掴まなければならない。
夕陽が書斎の窓から消えた。部屋が薄暗くなり、蝋燭の灯りが二人の顔を照らしている。ルシアンが立ち上がり、扉に向かった。
「明日、来る」
「お待ちしておりますわ」
ルシアンは頷き、書斎を出ていった。扉が閉まる直前、一瞬だけ振り返った。碧眼がリーナの右耳のイヤーカフに留まり、すぐに逸れた。
リーナは一人になった書斎で、右耳のイヤーカフに指を触れた。明日、ルシアンの核紋に触れる。過去の旋律が聴こえる。
身震いが走った。期待と、ほんの少しの緊張と、それとは別の何か。ルシアンの核紋に手を重ねるという行為が、リーナの胸を不規則に打っていた。




