第33話 星脈鉄の旋律
ルシアンが伯爵邸を訪れたのは、午後の陽射しが書斎の窓から差し込む時間だった。
いつもの冷淡な顔に、何か隠しているような気配がある。リーナの鑑譜眼を使うまでもなく、それは分かった。左手に小さな木箱を持っている。
「午後からの商談は明日に延期になった」
「そうですの。では何の御用でしょう」
ルシアンは答えず、木箱をリーナの机の上に置いた。
「開けろ」
口調が「俺」に切り替わっている。書斎には使用人もいない。
リーナは木箱の蓋を開けた。
銀白色の鉱石が、柔らかな光を放っていた。
掌に収まるほどの大きさだが、手に取るとずしりと重い。内部に微細な結晶構造が透けて見えた。
「星脈鉄ですの」
「カスカーラの迷宮産だ。シュヴァルツベルク家の交易網を通じて手に入れた。出回る量が極めて少ない」
カスカーラ。あの迷宮都市の名前を聞いた瞬間、酒場「銅の角杯」の記憶がよぎった。冒険者たちの喧噪、杯を交わす笑い声、そして隣席にいた灰色の瞳の少年。
リーナは鉱石を手のひらに乗せたまま、瞳を金色に変えた。
鑑譜眼で鉱石を「聴く」。
息を呑んだ。
鉱石が歌っている。
星脈の共鳴を増幅する希少鉱石という知識はあったが、実物を鑑譜眼で視るのは初めてだった。鉱石の内部から、澄んだ高音の旋律が響いている。人工物ではない、大地そのものが奏でる音。星脈の流れが凝縮された結晶が、リーナの鑑譜眼に共鳴して振動していた。
「……歌っていますわ。この鉱石」
「聞こえるのか」
「ええ。とても澄んだ音ですの。星脈の旋律が、結晶の中に閉じ込められている」
リーナは鉱石を指先で回した。旋律の角度が変わる。底面に近い部分を聴いた時、瞳の金色が一瞬揺らいだ。
別の旋律が、重なっていた。
鉱石そのものの歌ではない。もっと人間的な、核紋の残響。この鉱石を掘り出した人間の手の痕跡が、微かに刻まれている。
空のようで、空じゃない旋律。
リーナの脳裏に、カスカーラの酒場で見た灰色の瞳が一瞬よぎった。隣席にいたあの少年。核紋に異常を感じた、あの少年の旋律と同じ質感が、この鉱石の奥に残っている。
だが確信には至らない。残響は薄く、鉱石の歌に紛れてほとんど聴き取れない。あの酒場で「冒険者の事情に首を突っ込むな」とルシアンに止められた時のことが脳裏をよぎった。あの少年の核紋の謎は、いまだに解けていない。
だがこれ以上は、今の鑑譜眼では読み取れなかった。
「どうした」
ルシアンがリーナの表情の変化を見逃さなかった。
「いえ。少し気になる残響がありましたけれど、鉱石の旋律に紛れて聴き取れませんでしたわ」
リーナは瞳を紫に戻した。鉱石を木箱に戻しかけて、手を止める。
「この星脈鉄を、わたしにくださるのですの」
「加工する。鑑譜眼の補助具にする」
ルシアンは窓際に寄りかかり、腕を組んだ。
「お前の鑑譜眼の精度が上がれば、俺の仕事も楽になる。それだけの話だ」
それだけの話。
リーナは鑑譜眼を使わなくても、その言葉に嘘が混じっていることが分かった。声の調子が微かに低くなる。ルシアンが照れている時の癖だ。
「ありがとうございます、ルシアン様」
「礼を言うようなことじゃない」
「いいえ。希少な鉱石をわたしのために手配してくださったのですわ。礼を言わない方が不自然ですわよ」
ルシアンが視線を逸らした。窓の外の庭園を見ている振りをしているが、耳の先が赤い。
リーナの耳も、赤かった。
沈黙が書斎に落ちた。窓の外で小鳥が鳴いている。午後の陽射しが、机の上の木箱を照らしていた。
「……庭でも歩くか」
ルシアンが唐突に言った。間を持て余しているのだ。リーナは微笑んだ。冷血公子の照れ隠しは、いつも唐突だった。
「ええ。お庭の薔薇が見頃ですわ」
* * *
二人は庭園に出た。
薔薇のアーチの下を歩きながら、ルシアンが補助具の加工について説明した。
「シュヴァルツベルク家お抱えの鍛冶師に預ける。星脈鉄の加工ができる職人は帝国に三人しかいない。そのうちの一人がうちの家に仕えている」
「加工には何日ほどかかりますの」
「二週間。イヤーカフの形に仕上げる。装飾品に見えるよう加工するから、能力の補助具だとは気づかれない」
「イヤーカフ……」
リーナは自分の耳に触れた。星脈鉄の補助具が耳元にある状態で鑑譜眼を使えば、共鳴が増幅される。聴こえる旋律の範囲と精度が飛躍的に上がるだろう。
「残響も、聴けるようになるかもしれませんわ」
「残響?」
「核紋に刻まれた過去の旋律の痕跡ですわ。今のわたしの鑑譜眼では、現在進行形の嘘しか聴けません。でも補助具があれば、対象の核紋に触れることで、過去にその人が刻んだ嘘の痕跡を辿れるかもしれない」
ルシアンが足を止めた。碧眼がリーナを見下ろしている。
「過去の嘘を暴ける、ということか」
「理論上は。まだ試したことはありませんけれど」
ルシアンの目が鋭くなった。「影」としての顔だ。
「それが使えるなら、情報収集の幅が一気に広がる」
「ええ。ヴァレンシュタイン家の過去も」
「ええ。あの家に何十年分もの嘘が刻まれているなら、残響として聴こえるはずですわ」
薔薇のアーチから差す午後の光が、二人の間に落ちていた。ルシアンが口を開きかけて、閉じた。何かを言おうとして、やめたようだった。
代わりに、ルシアンの手がリーナの髪に触れた。
風で乱れた一房を、指先で耳の後ろに直す。
「……風が出てきたな」
「ええ」
リーナの声が、ほんの少しだけ上擦った。指先に残るルシアンの体温が、風に冷えていくのが惜しかった。
二人は並んで庭園を歩いた。薔薇の香りが風に乗って流れてくる。赤と白の薔薇が交互に咲くアーチの下を、ゆっくりと。
ルシアンは黙って歩いていたが、リーナとの距離がいつもより半歩分近かった。
リーナは木箱を胸に抱き直した。中の星脈鉄が、微かに温かい気がした。
二週間後。この鉱石がイヤーカフになって戻ってくる。その時、鑑譜眼は次の段階に入る。
ルシアンの手の温度が、木箱越しに指先に残っている気がした。




