第32話 フローラの反撃
その噂は、帝都の社交サロンから広がった。
「鑑譜眼は呪いの目ですってよ」
「星神の恵みを歪めて受け取る、忌まわしい能力だとか」
「星神教の神官様が公式に声明を出されたそうよ」
扇の陰で囁かれる言葉が、数日のうちに帝都の上流階級を覆っていった。
リーナは書斎で、ルシアンの部下が集めた報告書に目を通していた。フローラ・エーデルシュタインの反撃は、予想より早く、予想より組織的だった。
「三つのサロンで同日に同じ噂が流されていますわ。偶然では起こりえない。フローラが動いている」
「ああ。加えて、星神教の一派にも手が回っている」
ルシアンは窓際に立ち、腕を組んでいた。伯爵邸の書斎には二人きりだったが、口調はまだ公的なままだった。
「星導派のマルクス神官が声明を出した。鑑譜眼は『星神の音を盗み聴く冒涜の術』だと」
「星導派ですの? 星神教の中でも保守的な一派ですわね」
「ああ。だが影響力はある。帝都の中堅貴族に信徒が多い」
「大仰な言い回しですわね。星神の音を聴いた覚えはありませんのに」
* * *
翌日。リーナは星神教の聖堂を訪れた。
大聖堂の前庭で、マルクス神官が信徒たちに説教をしている。四十代の痩せた男で、声は高く、身振りは大げさだった。
「星脈は星神の血脈である。それを覗き見る能力は、神の領域への侵犯に他ならない」
リーナは信徒たちに混じって後方に立った。ルシアンの護衛が周囲に散っている。頭巾を目深に被り、伯爵令嬢の顔が見えないようにしていた。
聖堂の香炉から立ち昇る白い煙が、高い天井に向かって揺らめいている。星辰の壁画が煙越しに滲んで見えた。
瞳が金色に変わった。
マルクス神官の核紋が聴こえる。説教の言葉に乗せた「信仰への確信」の旋律は——薄い。表面だけを取り繕った、中身のない音。本物の信仰者の核紋はもっと深く、もっと安定した和音を奏でるはずだ。
そしてその旋律の底に、別の音が混じっていた。
金貨の音。
比喩ではなく、文字通りの不協和音として、賄賂を受け取った者特有の旋律が核紋に刻まれている。最近のもので、量も少なくない。音の質感からして、エーデルシュタイン家経由の資金。フローラの手が、ここまで伸びていた。
リーナの瞳が紫に戻った。
「あら」
小さく呟く。
暴露したい衝動を、リーナは飲み込んだ。ここで神官の嘘を暴けば、フローラは次の手を打つだけだ。大きな獲物を仕留めるには、網を広げなければならない。
聖堂を出る前に、リーナは信徒たちの核紋も軽く聴いた。説教を聞いている信徒の多くは善良な人々だった。彼らの核紋からは純粋な信仰の旋律が流れている。マルクス神官の言葉を信じ、鑑譜眼を本気で「冒涜」だと受け止めている。
胸が痛んだ。フローラの工作によって、善良な人々が嘘を真実と信じ込まされている。
だからこそ、今は耐えなければならない。根を断てば枝葉は枯れる。
* * *
伯爵邸の書斎に戻ったリーナは、紅茶の湯気の向こうでルシアンに報告した。
「マルクス神官の核紋に、フローラからの賄賂の不協和音がはっきり聴こえましたわ。声明は買収によるものです」
「暴くか」
「いいえ。泳がせますわ」
リーナはカップを置いた。
「フローラは今、わたしを潰すために手を広げている最中ですわ。手を広げれば広げるほど、旋律の綻びが増えていく。神官の買収、サロンでの扇動、議員への根回し。一つ一つが不協和音として核紋に刻まれていきますの」
「今暴いても、マルクス一人が落ちるだけだ」
「その通りですわ。大きな魚を釣るには、餌を撒く時間が必要ですもの」
ルシアンの碧眼がリーナを見つめた。計算ではない視線。もっと深い、品定めとも感嘆ともつかない光。
「……お前は本当に、面倒な女だな」
口調が「俺」に切り替わっていた。書斎には二人しかいない。
「フローラの反撃を待って泳がせるなんて、普通の令嬢は思いつかない」
「普通の令嬢は鑑譜眼を持っていませんもの」
リーナは澄ました顔で紅茶を啜った。耳の先だけが、わずかに赤い。
「だが、無防備でいるわけにもいかない。フローラの工作が議会にまで及べば、伯爵家への圧力が強まる」
「ですから、証拠を集めていますのよ。マルクス神官の賄賂、サロンでの扇動者、次に手を回す先。全て、フローラの工作の地図を完成させるための素材ですわ」
ルシアンが紅茶に手を伸ばした。カップを口元に運びながら、碧眼がリーナから離れない。
「シュヴァルツベルクの情報網でも裏を取っておく。お前の鑑譜眼の証言だけでは、政治的に弱い」
「ええ。旋律は法廷の証拠にはなりませんものね」
二人の間で、紅茶の湯気が揺れていた。
* * *
三日後。フローラの工作はさらに拡大していた。
帝都の中堅貴族たちの間で、リーナの鑑譜眼を「危険な能力」として警戒する声が広がり始めている。社交サロンへの招待が三件取り消され、取引先の商人が一人、伯爵家との契約更新を保留した。
父エーリヒが夕食の席で、静かに状況を報告した。
「リーナ。社交界の風向きが変わりつつある。対応が必要ではないか」
「お父様、心配は無用ですわ」
リーナはフォークを置き、父の目を見た。
「フローラが動けば動くほど、旋律の綻びが増えていきますの。サロンでの噂、神官の声明、商人への圧力。全て、エーデルシュタイン家の意向で動いている証拠が、関係者の核紋に刻まれていく」
「しかし……」
「わたしが今するべきことは、反撃ではありませんわ。記録することですの。誰が、いつ、どんな嘘をついたか。全ての旋律を覚えておく。その日が来たら、一度に全て暴きますわ」
エーリヒの表情が緩んだ。娘の目に迷いがないことを確認して、頷く。
「お前を信じよう」
「ありがとうございます、お父様」
エーリヒが食事を再開した。リーナも銀のフォークを取り上げたが、手が一瞬止まった。父の核紋を、鑑譜眼なしでも感じていた。娘を信じる旋律と、ヴァレンシュタイン家への静かな怒り。
この家を守るためにも、フローラの嘘の網を完全に暴かなければならない。
食事を終え、リーナは階段を上がった。窓の外で、帝都の夕空が暮れていく。
* * *
その夜。自室の机に向かったリーナは、手帳に記録を取っていた。
フローラの反撃によって不協和音を刻んだ人間の一覧。マルクス神官、サロン運営者のフォーゲル夫人、取り消された招待状を出したレーマン家、ベッカー家、シュタイン家。商人のグスタフ。
六人。たった数日で六人の核紋に、フローラの工作の痕跡が残った。
一人一人の名前の横に、聴き取った不協和音の特徴を書き添えていく。マルクス神官は買収の音。フォーゲル夫人は脅迫の音。レーマン家は怯えの音。ベッカー家は追従の音。シュタイン家は利害計算の音。グスタフは保身の音。
旋律は、それぞれ異なっていた。フローラは相手によって手段を変えている。金で動く者には金を、恐れる者には脅しを、利を求める者には取引を。
組織的だ。そして、それだけの手間をかけている以上、フローラにとってリーナの鑑譜眼は本当に脅威なのだろう。
リーナは羽ペンを置き、窓の外を見た。
フローラが動けば動くほど、旋律の綻びが増えていく。自分の嘘で自分の首を絞めていることに、彼女は気づいていない。
気づかせてあげましょうか。
いいえ、まだ。
リーナは手帳を閉じた。大きな魚は、焦らず待つ。フローラの旋律が十分に綻んだ時が、網を引く時だ。
紫の瞳が、蝋燭の炎を映して揺れた。




