第30話 和声の目覚め
商談の場は、帝都中央区の商館だった。
大理石の床に赤い絨毯が敷かれ、壁面には帝国の交易認可証が額装されている。天窓から差し込む光が、長テーブルの上の書類を白く照らしていた。
テーブルの一方に、三人の商人が並んでいる。
右端。ラインハルト。五十代の大柄な男。シュヴァルツベルク家と長年取引のある穀物商。顎髭が胸まで伸び、指には金の印章指輪が光っている。
中央。ゴットフリート。三十代半ば。新興の鉱石商。痩身で眼光が鋭く、計算高い印象を与える男。
左端。ベルタ。四十代の女商人。布地と染料を扱う。落ち着いた物腰だが、交渉の場では一歩も引かないことで知られていた。
テーブルの反対側に、リーナとルシアンが座っている。
「本日はお集まりいただきありがとうございます」
ルシアンの声は公的な冷たさをまとっていた。
「シュヴァルツベルク家の交易路に関わる三者間の共同事業について、条件を詰めたい」
三人の商人がそれぞれ頷く。しかし三人の視線が互いを牽制し合っているのが、リーナには見て取れた。
共同事業と銘打ってはいるが、実態は利権の奪い合い。三人とも自分の取り分を最大化しようとしている。
「では、ラインハルト殿から」
ルシアンが促した。
ラインハルトが口を開いた。
「穀物の輸送路については、現行の北回りルートを維持していただきたい。費用の面から見ても最も軽く済みますからな」
リーナの瞳が金色に変わった。
ラインハルトの核紋から旋律が流れ出す。低音域の重厚な和音。だが三拍目に薄い不協和音が混じっている。「費用の面から最も軽い」という発言に嘘がある。北回りルートはラインハルトの倉庫を経由するため、自分の中間マージンが最大化される。費用が最も軽いのは帝国にとってではなく、ラインハルト個人にとってだ。
同時に。
ゴットフリートの核紋が聴こえた。
リーナの瞳が一瞬だけ大きく見開かれた。
ラインハルトの旋律を聴きながら、ゴットフリートの旋律も同時に流れ込んでくる。闇オークションで一度だけ掴みかけた感覚が、今度は逃げずに手の中にあった。二人分の核紋が、同時に耳に届いている。
ゴットフリートの核紋は中音域。鋭い旋律で、ラインハルトの発言を聴きながら内心で計算を走らせている。彼もまた嘘を準備している。自分の提案する道の方が費用が抑えられると主張するつもりだが、実際にはゴットフリートの鉱山に近い南回りの道を通すことで自分の輸送費を下げる魂胆だ。
二人の嘘が同時に聴こえる。
まるでヴァイオリンとチェロのパートが同時に聴こえるように。
リーナの心臓が跳ねた。
「次に、ゴットフリート殿」
ルシアンが促すと、ゴットフリートが予想通りの主張を始めた。
「南回りルートの方が距離は短い。鉱石の輸送を考えれば——」
リーナはゴットフリートの旋律に集中しながら、同時にベルタの核紋にも耳を向けた。
三人目の旋律が流れ込んできた。
ベルタの核紋は高音域。布地商らしい繊細な旋律だが、そこにも不協和音がある。ベルタは中立を装いながら、ゴットフリートと事前に密約を交わしている。二人で組んでラインハルトの取り分を削り、後で山分けにする算段だ。
三人の旋律が同時に聴こえる。
ヴァイオリン。チェロ。ビオラ。
三つの楽器が同時に鳴り、それぞれが異なる嘘を奏でている。リーナの鑑譜眼はその全てを——和声として聴き分けていた。
* * *
前世の記憶が、一瞬だけ蘇った。
コンサートホールの舞台。何十もの楽器の音を同時に把握し、その中で自分のパートを正確に奏でる。
あの感覚だ。前世で培ったオーケストラの経験が、鑑譜眼と結びついた。
単音ではなく和声。一人ではなく複数。
リーナの紫の瞳が金色に輝いている。光の強さが、これまでとは明らかに違う。
* * *
「——以上が私の提案です」
ベルタが発言を終えた。三人の商人がルシアンの反応を待っている。
リーナはルシアンに小さく頷いた。ルシアンの碧眼が、それを受け取る。
「少し整理させてもらおう」
ルシアンが言った。
「リーナ嬢。所見を」
リーナは微笑んだ。穏やかな、令嬢の微笑み。
「三つほど、旋律の乱れが聴こえましたの」
三人の商人の表情が同時に強張った。
「まず、ラインハルト様。北回りの費用が最も軽いというお話——それは帝国にとってではなく、ラインハルト様の倉庫を経由するための最適ですわね」
ラインハルトの顔が赤くなった。
「次に、ゴットフリート様。南回りルートの利点は距離の短さではなく、ゴットフリート様の鉱山への近接性ですわ。輸送費が下がるのは帝国ではなく、ゴットフリート様ですの」
ゴットフリートの眼光が鋭くなった。唇を引き結んでいる。
「そして——ベルタ様」
リーナの視線がベルタに向いた。ベルタの表情に、初めて動揺が走った。
「中立のお立場を装っていらっしゃいますけれど、ゴットフリート様との事前のお約束が旋律に聴こえていますわ。二人でラインハルト様の取り分を削り、後で分配なさるおつもりでしょう?」
商談の場が凍りついた。
ベルタとゴットフリートの間に走った視線が、リーナの指摘が正しいことを証明していた。ラインハルトが椅子から半ば立ち上がり、ゴットフリートを睨みつけている。
「——三者の条件を再提出していただく」
ルシアンが冷たく言い切った。
「今度は、嘘のない旋律で」
* * *
商人たちが退室した後、リーナは椅子の背にもたれた。
こめかみに鈍い痛みがある。三人の核紋を同時に聴き分けた負荷が、頭の奥に残っていた。
「……少し、疲れましたわ」
「三人同時か」
ルシアンの声が変わった。商館には二人きり。碧眼がリーナを見つめている。
「ええ。和声——複数の旋律を同時に聴き分ける力ですわ」
リーナは瞳を閉じた。まだ耳の奥に、三つの旋律の残響が微かに響いている。
「前世のオーケストラで何十もの楽器を同時に把握していた感覚が、鑑譜眼に繋がったようですの」
「……前世の経験が、鑑譜眼を進化させた」
「そうですわ。和声が聴こえるようになれば、宮廷の商談どころか——」
リーナは目を開けた。金色の光はもう消えている。紫の瞳に、静かな決意が宿っていた。
「帝国議会で、複数の議員の嘘を同時に暴くことも可能ですわ」
ルシアンは一瞬、言葉を失った。それから小さく息を吐いた。
「……お前の鑑譜眼は、どこまで進化するつもりだ」
「わたくしにも、わかりませんわ」
リーナは立ち上がった。こめかみの痛みはまだ残っているが、足取りは確かだった。
「ただ——和声が聴こえる。鑑譜眼は、わたくしの前世と繋がっていたのですわね」
窓の外に、帝都の街並みが広がっている。五大公爵家の旗が風にはためき、無数の旋律が渦を巻いている。
その全てを聴き分ける力が、今、リーナの瞳に宿り始めていた。




