第29話 ディートリヒの外交失態
帝国外交局の会議室は、重い沈黙に包まれていた。
長テーブルの上座に、ディートリヒ・ヴァレンシュタインが座っている。銀の礼装に帝国騎士団長の紋章。金髪を整え、背筋を伸ばし、形だけは完璧な指揮官の姿をしていた。
向かい側には、連合王国群の外交使節団が並んでいる。
フィオーレ王国の外交官マルチェロ。四十代の男で、銀縁の眼鏡の奥に油断のない眼光を光らせている。その隣にマルセイド公国の書記官。さらに二名の随員。
「ヴァレンシュタイン卿。先日の国境地帯における帝国軍の展開について、我々は深い懸念を抱いております」
マルチェロの声は穏やかだった。しかしその穏やかさの裏に、刃が隠されていることをディートリヒは感じ取れなかった。
「懸念? 帝国軍の展開は、条約に基づく正当な行動だ」
「もちろんです。しかし、条約第八条の解釈について、双方に齟齬があるようでして」
マルチェロが書類を差し出した。条約第八条の条文と、帝国軍の展開図を重ね合わせた分析資料。
ディートリヒは書類に目を通した。条文の文言は覚えている。だが連合側が指摘する解釈の「齟齬」が、どこにあるのかが見えない。
かつてなら、隣にリーナがいた。
彼女が鑑譜眼で相手の核紋を視れば、どの発言に嘘が含まれているか即座にわかった。ディートリヒはその情報を基に交渉を進めればよかった。リーナが「三箇所、旋律が乱れています」と囁けば、その三箇所を突けばよかったのだ。
今は、誰もいない。
「第八条の但し書きを読み直していただきたいのですが」
マルチェロが穏やかに促した。
ディートリヒは但し書きを読んだ。読んだが、連合側の主張する解釈と帝国側の解釈の差異が、法文のどの部分から生じているのか、掴めない。法律の専門家ではないのだから当然だと自分に言い聞かせる。だが、騎士団長として条約の軍事条項に最終承認を与えたのは自分だ。
「——その解釈は受け入れられない」
ディートリヒは言い切った。根拠を示さずに。
マルチェロの眼鏡が光った。唇の端が、ほんの僅かに持ち上がる。
「では、代替案をご提示いただけますか」
沈黙。
ディートリヒの脳裏に、あの紫の瞳が過ぎった。
——あの目さえあれば。
首を振った。拳をテーブルの下で握り締める。あんな気味の悪い目は要らない。自分は帝国騎士団長だ。一介の伯爵令嬢の目など、なくても。
「……追って回答する」
苦い言葉だった。マルチェロは慇懃に頷き、書記官が議事録に記入する音が静かに響いた。
* * *
会議を終えて執務室に戻ると、副官のエルンストが待っていた。
「団長。会議の結果は」
「……追って回答する、と伝えた」
エルンストの表情が僅かに曇った。優秀な副官は、それが実質的な後退であることを理解している。
「連合側の外交官は手強い相手でした。特にフィオーレのマルチェロは」
「わかっている」
ディートリヒは椅子に深く座り込んだ。金髪が額にかかる。指先が、無意識に机の縁を叩いている。
あの伯爵令嬢がいれば、マルチェロの発言のどこに嘘があるか即座にわかった。嘘がないなら、それはそれで情報になった。相手が真実を述べているなら、帝国側の主張に穴があるということだ。
だがもう、その目は手の届かない場所にある。
「エルンスト。下がれ」
「はっ」
副官が退室した。
一人になった執務室で、ディートリヒは窓の外を見つめた。帝都の屋根が夕陽に赤く染まっている。騎士団の練兵場から、剣戟の音が微かに聞こえてくる。
扉が叩かれた。
重い音。この叩き方を知っている。
「入れ」
ヴァレンシュタイン公爵。ディートリヒの父。
六十代の壮年。ディートリヒと同じ金髪だが、白いものが混じっている。碧眼は息子より遥かに深く、冷たい。帝国の軍事を百年にわたって統べてきた家の当主の眼光だった。
「今日の会議の報告は受けた」
公爵の声には感情がなかった。それがかえって、怒りの深さを示していた。
「父上——」
「連合の外交官に主導権を渡したな」
「あれは時間を稼いだのです。追って——」
「追って回答する、か」
公爵が一歩近づいた。ディートリヒの肩が強張る。
「リーナ・クレスタフェルデを切ったのは、お前の判断だ」
空気が凍った。
「あの娘の鑑譜眼があれば、今日の会議でマルチェロの嘘を見抜けた。お前はそれを承知の上で、婚約を破棄した」
「あの目は——」
「気味が悪い。そうだな。お前はそう言った」
公爵の碧眼がディートリヒを射抜いた。
「だがな、ディートリヒ。気味が悪かろうが役に立つ道具は手放さない。それが政治だ。お前はそれすら理解できずに、感情で判断した」
ディートリヒの唇が震えた。何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。
「その責任は、お前が取れ。次の交渉で同じ失態を演じれば、騎士団長の座は考え直す」
公爵は踵を返した。扉が閉まる音が、執務室に響いた。
ディートリヒは椅子に座ったまま動けなかった。
拳を握り締める。爪が掌に食い込んでいる。
道具。父はリーナをそう呼んだ。自分もそう思っていた。便利な道具。嘘を見抜く道具。だが手放したのは自分だ。
あの紫の瞳が脳裏をよぎる。婚約破棄を告げた夜、リーナは泣かなかった。ただ、真っ直ぐに自分を見つめていた。
——あの目が、怖かったのだ。
自分の嘘を全て見透かす目が。
* * *
——同日。シュヴァルツベルク家別邸。
「ディートリヒが連合との会議で後退したそうですわ」
リーナは茶器を手に、ルシアンに報告した。シュヴァルツベルク家の情報網は、宮廷の動きを即日で捉える。
「マルチェロに主導権を渡した。予想通りだ」
ルシアンの声に感慨はなかった。
「二重条約の証拠と合わせれば、ディートリヒの外交判断がいかに杜撰だったかが浮き彫りになりますわね。嘘を見抜く目を自ら手放しておいて、嘘を見抜けないと嘆く。滑稽ですわ」
リーナは茶を一口飲んだ。温かい液体が喉を滑り落ちていく。
「ディートリヒの旋律が、遠くからでも軋んで聴こえますわ」
窓の外に目を向けた。帝都の夕暮れ。五大公爵家の旗が風にはためいている。
「自分の嘘に自分で気づいていない。『あの目は要らない』と言い聞かせながら、本当は手放したことを後悔していますのよ。それが一番哀れな不協和音ですわ」
ルシアンは何も言わなかった。ただ碧眼がリーナを見つめていた。その視線の中に、冷たい短調とは異なる温度がほんの一瞬だけ宿り、すぐに消えた。
帝都の長い夜が、ゆっくりと静かに更けていった。




