第28話 辺境の奇跡
帝都に戻って三日目。リーナはシュヴァルツベルク家別邸の書斎で、カスカーラから持ち帰った交易記録の整理に追われていた。
二重条約の証拠を体系的にまとめ、いつでも提出できる形に整える。ルシアンの指示で、原本の写しを三部作成し、それぞれ別の場所に保管する手配も進めていた。
「慎重すぎるのではありませんの?」
「足りないくらいだ。ヴァレンシュタインは証拠の隠滅を躊躇わない」
ルシアンは窓辺に立ち、帝都の街並みを見下ろしていた。公的な口調。書斎には使用人が出入りする可能性がある。
「それより、気になる報告が入った」
ルシアンが一通の書簡をリーナの机に置いた。シュヴァルツベルク家の交易網から上がってきた、辺境からの定期報告。
「辺境の交易商が書いた報告書だ。読んでみろ」
リーナは書簡を手に取った。
丁寧だが素朴な筆跡。グリュンハイム。帝国北西部の辺境自治区。温泉と薬草で知られる、帝都からは馬車で十日ほどの小さな里だ。
報告の内容は、薬草の取引量と価格の変動に関するものだった。しかし末尾に、交易とは無関係の一文が添えられている。
『追記。グリュンハイムにて奇妙な出来事あり。枯渇した畑が一夜にして花畑に変わったとの報告が複数の住民より寄せられている。原因は不明。地元の精霊信仰者は「精霊の恵み」と呼んでいるが、星神教の巡回司祭は異端の兆候として警戒している模様』
リーナは書簡から顔を上げた。
「枯れた畑が一夜にして花畑に……」
「交易には直接関係ない。だが辺境でこの手の報告が増えている。うちの交易商は几帳面だから、こういう噂も逐一記録する」
「この報告書を、鑑譜眼で視てもよろしいですか」
「好きにしろ」
リーナの瞳が金色に変わった。
指先を羊皮紙に這わせる。交易商の核紋の残滓が、薄く文書に染みついている。旋律を聴く。
澄んだ和音だった。
嘘の不協和音は一切ない。交易商は自分が見聞きしたことをそのまま記している。枯れた畑が花畑に変わったという報告。それを伝えた住民たちの言葉にも嘘はなかったと、交易商の核紋が告げている。
「嘘ではありませんわ」
リーナは瞳の金色を消した。
「この交易商は本当のことを書いています。辺境で起きた奇跡は、実際に起きたということですわね」
「奇跡、か」
ルシアンの声には懐疑が滲んでいた。
「星脈の異常か、魔導具の暴走か。自然現象としての説明がつくはずだ」
「そうかもしれませんわ。けれど」
リーナは椅子の背にもたれた。窓から差し込む午後の光が、銀髪に柔らかな陰影を作っている。
* * *
その夜、リーナは夢を見た。
あの夜の大広間。シャンデリアの光。婚約破棄を告げられ、東回廊を一人で歩いていた夜。
柱の陰で泣いていた少女がいた。
年はリーナより三つか四つ下だろうか。素朴な衣服。辺境から来たのだろう、宮廷の華やかさとは無縁の少女だった。透き通るような肌に、涙の筋が光っていた。
あの時、リーナは立ち止まった。覚醒したばかりの鑑譜眼が、少女の核紋を聴いた。
透明で美しい旋律。どこか哀切を帯びているけれど、温かい音。
夢の中で、その旋律がもう一度聴こえた。鮮明に。あの交易商の報告書を読んだ直後に感じたのと同じ温かさ。枯れた大地に花を咲かせるような、命の旋律。
リーナは目を覚ました。
暗い天井。シュヴァルツベルク家別邸の客室。窓の外に三日月が浮かんでいる。
胸の奥で、あの旋律の残響がまだ鳴っている。
リーナは寝台の上で身を起こした。窓の外に帝都の夜景が広がっている。城壁の上の篝火が、等間隔に橙色の点を連ねていた。
あの少女に「泣いていても、何も変わりませんわよ」と声をかけた。少女は涙を拭いて、小さく頷いた。それだけのことだった。名前も聞かなかった。どこから来たのかも。
けれど核紋の旋律は、一度聴いたら忘れない。
鑑譜眼で聴いた音は、普通の記憶よりもずっと鮮明に残る。あの少女の旋律は澄み切っていて、宮廷の誰の核紋とも違っていた。光属性とも、水属性とも異なる。リーナの知る七つの属性のどれにも当てはまらない、不思議な温かさを持つ音だった。
そしてあの交易商の報告書を鑑譜眼で視た時、同じ温かさが微かに漂っていた。報告書そのものに少女の核紋が染みついていたわけではない。ただ、報告書が描写する「奇跡」の性質が、少女の旋律の特徴と重なったのだ。
偶然だろうか。
リーナは三日月を見つめた。答えは出ない。今夜はもう眠ろう。明日もまた、嘘を暴く仕事が待っている。
* * *
翌朝、書斎でルシアンと向き合った。
「辺境の件、もう少し調べさせていただけませんか」
ルシアンの碧眼が細くなった。
「二重条約の件が先だ。辺境に構っている余裕はない」
「それはわかっていますわ。ですから帝都を離れるつもりはありません。交易網の報告書を追加で取り寄せていただくだけで結構ですの」
「……何が気になっている」
リーナは少し迷った。あの夜の少女のことを話すべきか。しかし、まだ確信がない。鑑譜眼が告げているのは、あくまで「旋律の印象が似ている」という直感にすぎない。
「奇跡を起こす力。それが星脈の異常でも魔導具の暴走でもないとしたら、何者かの核紋による現象かもしれませんわ」
「辺境の娘が、一人で畑を蘇らせたとでも?」
「可能性の一つとして、ですわ」
ルシアンは腕を組んだ。しばらく考えてから、短く頷いた。
「報告書の追加分は手配する。だが、優先順位を間違えるな」
「もちろんですわ。二重条約の証拠の整理が最優先。辺境の件は、片手間で参ります」
リーナは穏やかに微笑んだ。しかしその胸の奥では、あの夜の少女の旋律が、まだ微かに響いている。
辺境で奇跡を起こす娘。
あの夜の少女の旋律と同じ温かさ。
二つの音が、リーナの中で重なり始めていた。まだ和音にはならない。けれどいつか、この旋律の正体を確かめる日が来る。
鑑譜眼がそう告げていた。
リーナは交易記録に視線を戻した。今やるべきことは、ヴァレンシュタイン家の嘘を暴くこと。辺境の奇跡は、その先に待っている。
羊皮紙の上をペンが走る音が、書斎に静かに響いた。二重条約の証拠を整理する手は止まらない。ルシアンが淹れてくれた紅茶の香りが、鼻先をかすめる。
リーナは顔を上げた。窓の外に、帝都の屋根が連なっている。白亜の城壁。五大公爵家の旗。嘘と策謀に満ちた街。
この街の不協和音を、一つずつ暴いていく。それがリーナの仕事だ。
それでも、枯れた畑に花を咲かせる旋律のことを、忘れることはできなかった。




