第27話 帝都への帰還
馬車の車輪が石畳を離れ、土の道に変わった。
カスカーラの港町が背後に遠ざかり、窓の外には麦畑が広がっている。秋の穂が風に揺れ、金色の波を作っていた。帝都イグナシオンまで、馬車で三日の道程。
リーナは向かいの座席に座るルシアンを見つめた。
碧眼は窓の外に向けられている。黒髪が微かに揺れ、鋭い横顔に午後の光が差している。馬車の中には二人きり。護衛の騎士たちは別の馬車に乗っている。
ルシアンの口調が切り替わったのは、カスカーラの市壁が見えなくなった頃だった。
「……眠くないのか」
「ええ。まだ頭の中で証拠の整理をしていますの」
「休め。帝都に着いてからが長い」
ぶっきらぼうな声。けれどリーナの耳には、その声に滲む心配の色が聴こえていた。鑑譜眼を使うまでもない。この数週間で、ルシアンの声の機微を読むことに慣れてしまった。
「ルシアン様こそ、お疲れではありませんの?」
「俺は寝なくても動ける」
「嘘ですわね。昨夜、宿の食堂で船酔いの冒険者より先に舟を漕いでいらしたでしょう」
ルシアンが一瞬だけ目を逸らした。リーナは小さく笑った。
* * *
日が傾き始めた頃、馬車は街道沿いの宿場町で一泊することになった。
夕食を終え、宿の裏手にある庭に出ると、星が驚くほど鮮明に見えた。帝都の夜空とは比べものにならない。星々が降り注ぐように輝き、天の川が白い帯となって空を横切っている。
石造りのベンチに並んで座った。虫の声が遠くで鳴っている。
「ルシアン様」
「何だ」
「シュヴァルツベルク公爵家のことを、もう少し教えていただけませんか」
ルシアンは黙った。長い沈黙だった。虫の声が二つ、三つと重なっていく。
「……何が知りたい」
「あなたがなぜ『影』の仕事を引き受けたのか」
ルシアンは星空を見上げた。碧眼に星明かりが映り、普段の鋭さが和らいでいる。
「シュヴァルツベルク家の次男は、生まれた時から役割が決まっている。兄が表を継ぎ、俺は裏を担う」
「それは——」
「闇属性だからだ」
短い言葉だった。しかしその声には、長い年月の重みが滲んでいた。
「シュヴァルツベルク家は財務を握る家だが、交易の裏には必ず闇がある。密輸、横領、裏取引。それを処理するのが次男の仕事だった。闇属性の適性が高い人間が、闇の仕事に就く。合理的だろう」
「合理的、ですか」
リーナの声に棘が混じった。
「闇属性だから闇の仕事を。それは合理ではなく偏見ですわ」
ルシアンが振り向いた。碧眼がリーナを捉える。
「……兄は炎属性だ。華やかで、強く、誰からも慕われる。社交の場に立てば人が集まる。俺が隣に立てば、人が散る」
「わたしは散りませんでしたわ」
「知っている」
短い沈黙。風が庭の木の葉を揺らした。
「感情を殺すことに慣れた」
ルシアンの声は低く、静かだった。
「影の仕事は感情が邪魔になる。何も感じない方が効率がいい。だから——十五の頃には、大抵のことで心が動かなくなった」
リーナは何も言わなかった。ただ、隣に座って星空を見上げていた。
「だが——お前の前では面倒だ」
ルシアンが言った。
「感情が勝手に動く。殺しても殺しても、お前の旋律が——」
言葉が途切れた。ルシアンが口を噤み、視線を逸らす。言い過ぎたと思ったのかもしれない。
リーナの耳が熱くなっていた。星明かりの下で赤みが見えないことを祈りながら、彼女は膝の上で指を組んだ。
「……わたしの旋律が、何ですの」
「……忘れろ」
「鑑譜眼は一度聴いた旋律を忘れませんわ。ルシアン様の今の言葉も」
ルシアンが小さく息を吐いた。呆れたような、観念したような、微かな吐息。
「お前の前では、嘘がつけない。鑑譜眼のせいじゃない。——お前自身に、嘘をつきたくないんだ」
リーナは瞳を伏せた。紫の瞳に星明かりが揺れている。鑑譜眼を発動する気はなかった。今のルシアンの旋律を「聴く」必要はない。声だけで、嘘がないことがわかるから。
「わたしもですわ」
小さな声だった。風に攫われそうなほど。
「ルシアン様の前では、令嬢の仮面を外したくなりますの。困ったものですわ」
二人の間に、温かい沈黙が降りた。
虫の声が遠くで鳴いている。風が木の葉を揺らし、小さな音を立てた。
星が一つ、流れた。
* * *
三日目の朝。馬車の窓から、帝都イグナシオンの城壁が見えた。
白亜の城壁が朝日を受けて輝いている。五つの塔がそびえ、それぞれに五大公爵家の旗が翻っている。街道を行き交う馬車や荷車の数が増え、兵士の鎧の音が響き始めた。
ルシアンの口調が、「俺」から「私」に戻った。
「帝都に入る。ここからは——」
「ええ、わかっていますわ」
リーナは微笑んだ。
城壁が近づくにつれ、ルシアンの旋律が変わっていくのが聴こえた。鑑譜眼を使わなくても感じ取れるほどの変化。星空の下で聴いた温かな長調が、冷たい短調に沈んでいく。
帝都はルシアンにとっても仮面をかぶる場所なのだ。
門をくぐった。
石畳の音が馬車の底板を震わせる。帝都の喧騒が窓の外から押し寄せてきた。市場の呼び声、馬の嘶き、鍛冶場の金属音。
リーナは窓の外を見つめた。あの宮廷舞踏会の夜から、まだ一月も経っていない。けれど帝都の景色が、以前とは違って見える。
嘘の旋律が、街の至るところから聴こえていた。
「ルシアン様」
「何だ」
「帝都の旋律は、やはり騒がしいですわね。嘘が多すぎて耳が痛くなりますの」
ルシアンは答えなかった。ただ、手袋をはめた手が一瞬だけリーナの手に触れた。
すぐに離れた。
馬車が止まった。シュヴァルツベルク家の別邸。ルシアンが先に降り、リーナに手を差し出した。公的な所作。だが差し出された手のひらの角度が、ほんの僅かだけ——宿場町の夜に見せた素顔の名残を留めていた。
リーナはその手を取った。手袋越しに伝わる指先の温度。宿場町の夜の温かさが、まだ残っているように感じた。
帝都の空は灰色だった。カスカーラの抜けるような青空とは違う。五大公爵家の旗が風にはためいているが、その旗の下に積もった嘘の厚さを、今のリーナは知っている。
二重条約の証拠は鞄の中にある。ディートリヒの承認印の旋律は、耳の奥に刻まれている。
ルシアンの旋律が、また冷たい短調に戻りつつある。
帝都は彼にとっても、仮面をかぶる場所。それでも——星空の下で聴いた長調の旋律は、消えてはいない。短調の底に、微かに、確かに、温かい音が残っている。
リーナはそれを聴き取れる自分に、少しだけ救われた気持ちになった。




