第26話 二重条約の証拠
カスカーラのギルド本部は、朝から人の波が絶えなかった。冒険者たちが依頼掲示板の前で肩を押し合い、受付嬢の声が甲高く響いている。
リーナは二階の記録室に籠もっていた。
机の上に積まれた交易記録の束。帝国と連合王国群の貿易に関わる書類が、年代順に並んでいる。
「昨日の続きですわね」
リーナは手袋を外し、最初の羊皮紙に指先を這わせた。
瞳が金色に変わる。
覚書第十四号。帝国側外交官ヴェーバーの署名入り。条約の付帯条件として、連合王国群に対する鉱物資源の優先供給を定めた文書。表面上は帝国が連合に譲歩したように見える。
だが、インクの下から立ち上る旋律には、歪みがあった。
「……二つ。いえ、三つですわ」
不協和音が重なっている。一つではなく、複数の嘘が互いに支え合うように組み上げられている。リーナは息を詰めた。
これまでの鑑譜眼は、嘘を一つずつ聴き分けていた。しかし今、耳に届くのは単音ではない。嘘と嘘が織りなす和音——不協和音の「重なり」だった。
一つ目の不協和音。優先供給条項の裏に、実際には帝国側が供給量を恣意的に調整できる但し書きが隠されている。
二つ目。連合側への通知義務が、実質的に帝国側の裁量に委ねられる構造。
三つ目——これが最も深い。
「裏条約の存在を示す旋律ですわね」
リーナは指先を離した。金色の光が薄れ、紫の瞳に戻る。
* * *
ルシアンが記録室の扉を開けたのは、リーナが四冊目の記録を精査し終えた頃だった。
「進捗は」
碧眼が机上の書類を一瞥する。公的な場ではないが、ギルドの職員が出入りする可能性がある。ルシアンの口調は平坦なままだった。
「二重条約の全容が見えてきましたわ」
リーナは精査した書類の要点を指で示した。
「表の条約で連合に有利な条件を見せています。鉱物資源の優先供給、関税の引き下げ、通商路の拡大。どれも連合にとって魅力的な条件ばかり」
「だが裏がある」
「ええ。裏条約では、表の条約で与えた利益を全て帳消しにする条項が組み込まれていますの。供給量の調整権、関税の例外規定、通商路の管理権。結局、連合は何も得ていません。搾取されているだけ」
ルシアンが椅子を引き、リーナの隣に座った。書類を手に取り、外交官の署名を確認する。
「ヴェーバー。帝国外交局の次官だ。ヴァレンシュタイン家の息がかかった男として知られている」
「この方だけではありません」
リーナは別の書類を引き出した。
「四つの文書に共通する不協和音のパターンがあります。同じ人間が嘘の構造を設計していますわ。旋律の癖が同じですの。ヴェーバーは実行者にすぎません」
「設計者は」
「まだ特定できていません。ただ」
リーナは最後の書類を開いた。五冊目。条約の最終承認に関する記録。
瞳が金色に変わる。
書類の旋律を聴いた瞬間、リーナの指先が止まった。
不協和音ではなかった。正確には、不協和音と和音が複雑に絡み合った旋律。承認印を押した人間の核紋の残滓が、薄く文書に染みついている。
「ルシアン様」
「何だ」
「この承認印の旋律……わたし、聴き覚えがありますの」
リーナの声が低くなった。
「あの夜、婚約破棄を告げた男の旋律と同じ」
ルシアンの碧眼が鋭くなった。
「ディートリヒか」
「ええ。騎士団長としての承認印です。帝国の軍事面の最終承認権を持つ騎士団長が、この二重条約を知りながら承認していますの」
部屋の空気が張り詰めた。
* * *
午後の陽が傾き始めた頃、リーナは記録室を出た。
ルシアンが隣を歩いている。ギルドの出口を抜け、海風が吹き付ける石畳の通りに出た。
「証拠は揃いましたわ」
リーナは海を見つめた。カスカーラの港に停泊する商船の帆が、夕陽を受けて橙に染まっている。
「二重条約の全容。裏条約の条文。そしてディートリヒの承認印。これを帝都に持ち帰れば、ヴァレンシュタイン家の外交工作の一端を証明できますわ」
「帝都に戻ってからが本番だ」
ルシアンの声は低く、硬かった。周囲に人がいないことを確認したのか、ほんの僅かに口調が変わった。
「証拠があっても、使い方を間違えれば潰される。ヴァレンシュタインの力は、お前が思っている以上だ」
「存じていますわ。だからこそ、慎重に参りましょう」
リーナは歩きながら、頭の中で証拠の使い方を組み立てていた。いきなり全てを暴くのではなく、段階を踏んで追い詰める。まずは外交文書の不正を示し、次にディートリヒの関与を明らかにする。
「ルシアン様」
「何だ」
「今日、鑑譜眼に変化がありましたの」
リーナは立ち止まった。夕陽が彼女の銀髪を赤く染めている。
「嘘の重なりが聴こえるようになりました。一つの文書に込められた複数の嘘を、同時に。まだ完全ではありませんけれど」
ルシアンがリーナを見下ろした。碧眼に、微かな光が宿る。
「……お前の目は、どこまで進化する」
「わたしにもわかりませんわ。ただ」
リーナの紫の瞳が、夕陽を映して琥珀色に輝いた。
「二重条約の証拠は揃いました。でも、わたしの耳にはもう一つの不協和音が聴こえていますの」
「もう一つ」
「この条約を仕掛けたのはヴァレンシュタイン家の外交工作。けれど承認印を押したのはディートリヒ自身ですわ。騎士団長として。あの方は、二重条約の共犯者ですの」
ルシアンが一瞬、足を止めた。碧眼が細くなる。
「承認印の偽造という可能性は」
「ありませんわ。鑑譜眼で視た核紋の残滓は、本人のもの以外ありえません。ディートリヒ・ヴァレンシュタイン本人が、自らの意志であの承認印を押しています」
リーナの声は静かだった。かつての婚約者を告発する言葉。しかし胸の奥に痛みはなかった。あの夜の衝撃は、とうに分析すべき情報へと変わっている。
海風がリーナの髪を攫った。
「帰りましょう、ルシアン様。帝都へ」
ディートリヒの旋律が待っている。自分の嘘に気づかない、哀れな不協和音が。




