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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第25話 酒場の灰色の瞳

「銅の角杯」は、ギルド本部の裏手にある酒場だった。


 木造の二階建て。入口の上には銅製の角杯を模した看板が吊るされ、中からは賑やかな笑い声と食器の触れ合う音が漏れ聞こえている。冒険者たちが依頼の後に集まる場所らしく、革鎧姿の男女がひっきりなしに出入りしていた。


「情報収集には、こういう場所が一番ですわ」


 リーナは外套のフードを深く被りながら言った。銀髪を隠し、目立たないようにしている。帝都の令嬢が冒険者の酒場に入るのは、本来ならありえないことだ。


「俺の顔が利く店だ。奥の席を確保してある」


 ルシアンが先に立ち、店内を進んだ。カウンターの主人が軽く頷く。馴染みの客のようだった。


 奥のテーブルに通された。壁際の席で、入口が見渡せる位置。ルシアンが自然にリーナを壁側に座らせ、自分は通路側に腰を下ろした。


「何を?」


「麦酒を二つ」


 給仕が去ると、リーナはフードを少しだけずらした。店内を見回す。


 冒険者たちの喧騒が耳に心地いい。帝都の社交界の囁きとは違う、率直で荒っぽい声の洪水。嘘がないわけではないが、帝都の嘘が絹の手袋に包まれているとすれば、ここの嘘は素手で殴りかかってくるような率直さがあった。


 カウンターでは赤毛の女が給仕と値段交渉をしている。隅のテーブルでは老いた冒険者が若い仲間に迷宮の攻略法を語っていた。焼いた肉の匂いと麦酒の泡立つ音が、店内を満たしている。


 リーナは癖になっている鑑譜眼を、ごく薄く発動した。瞳の色が変わらない程度の、微弱な出力。周囲の旋律を何気なく聴く。帝都での習慣が、この街でも自然と出る。


 カウンターで口論している二人の冒険者。片方が依頼の報酬を誤魔化している旋律。


 隅のテーブルで酒を飲んでいる女戦士。核紋の旋律が力強く、炎属性のA級に近い出力。


 そして、隣席。


 リーナの呼吸が、一瞬止まった。


 隣のテーブルには、一人の少年が座っていた。


 粗末な麻の上着に革のベルト。年齢はリーナと同じか、少し下か。短く切り揃えた暗褐色の髪。特徴のない服装、目立たない佇まい。冒険者の酒場では、いくらでもいるような若者に見える。


 だが、核紋の旋律がおかしい。


 リーナの瞳が、意図せず金色に光った。


 少年の核紋は「空」だった。無属性。核紋に魔力が宿っていない状態。本来なら、核紋は何らかの属性を持って生まれてくる。空の核紋は極めて稀で、魔力を持たない者として扱われる。


 しかし。


 空のはずなのに、別の旋律が重なっている。


 まるで、空の器の中に何かを注ぎ込んだような。本来の核紋の上に、異なる音色が被さっている。透明な硝子の器に、色のついた液体を流し込んだような不自然さ。


 上から被せたような不自然な和声。


 フローラの魔力ランク偽装とは根本的に異なる。あれはエーデルシュタイン家の魔導院が外から貼りつけた偽装音だった。だがこの少年の核紋は、内側から変質している。器そのものの形は変わっていないのに、中身が入れ替わっているような。


 リーナが聴いたことのない種類の旋律だった。嘘ではない。改竄でもない。何かを喰らった痕。


 少年の灰色の瞳が、こちらを向いた。


 視線が交差した。


 灰色。澄んでいるが、底が見えない。凪いだ湖面のような瞳。その奥に、微かに何かが蠢いている。


 リーナは反射的に目を逸らした。瞳の金色を消す。心臓が速く打っている。


 少年は一瞬こちらを見ただけで、すぐに自分の麦酒に視線を戻した。何事もなかったかのように、杯を傾けている。


 リーナはテーブルの下でルシアンの袖を引いた。


「——ルシアン様」


 声を限りなく低くして、耳元に囁く。


「隣の少年の核紋が異常ですわ」


 ルシアンの碧眼が、ちらりと隣席を見た。すぐに視線を戻す。


「空の核紋か」


「空のようで、空じゃない。核紋の中に——何かを喰らった痕がありますの」


「喰らった?」


「ええ。嘘でも改竄でもない。核紋そのものが、別の核紋の一部を——取り込んでいる。そんな旋律、聴いたことがありませんわ」


 ルシアンの表情が引き締まった。


「……冒険者の事情に首を突っ込むな」


「でも」


「リーナ」


 ルシアンの声が低く、鋭くなった。


「俺たちの目的は二重条約の証拠を掴むことだ。冒険者一人の核紋の異常に関わっている余裕はない。ここはカスカーラだ。帝都とは違う。冒険者には冒険者の事情がある」


 リーナは唇を結んだ。ルシアンの言うことは正しい。今の自分たちには、帝国の嘘を暴くという任務がある。見知らぬ少年の核紋に気を取られている場合ではない。


 だが鑑譜眼は、一度聴いた旋律を忘れない。あの不自然な和声が、耳の奥にこびりついて離れなかった。


「……わかりましたわ」


 給仕が麦酒を運んできた。リーナは杯を手に取り、一口含んだ。苦い。帝都の宮廷では出されない、粗くて力強い味。


 隣席の少年は、静かに食事を続けていた。焼いた肉と硬いパン。冒険者の日常的な食事。何の変哲もない光景のはずなのに、リーナの鑑譜眼がどうしてもあの旋律を忘れられない。


* * *


 酒場を出たのは、日が傾き始めた頃だった。


 カスカーラの石畳の坂道を、二人は宿へ向かって歩いた。海からの風が吹き上がり、リーナの外套の裾を翻している。


「ルシアン様」


「何だ」


「あの少年のことですけれど」


 ルシアンが足を止めた。碧眼が、やや呆れた光を帯びている。


「首を突っ込むなと言った」


「首は突っ込みませんわ。ただ、記憶に留めておきたいだけですの」


 リーナは坂道の途中で振り返った。酒場の方角を見つめる。夕日が石造りの建物を橙色に染め、港の海が金色に光っている。


「空の核紋に何かを喰らった痕がある。そんな能力、聞いたことがありませんわ。嘘でも改竄でもない——核紋を喰らう力」


「お前の鑑譜眼でも、解析できないのか」


「深く視ようとする前に目を逸らしてしまいましたわ。あの灰色の瞳と目が合った時、背筋がぞくりとしました。嫌悪ではなく、ただ、深い。底が見えない」


 ルシアンは黙って歩き始めた。リーナが小走りで追いつく。


「いつか、もう一度聴く機会がありますわ」


「それは予言か」


「勘ですわ。前世のわたしは、一度聴いた旋律は忘れませんでしたの。あの少年の旋律も——忘れないと思いますわ」


 石畳の坂道を上る二人の影が、夕日に長く伸びた。


 カスカーラの酒場で出会った、灰色の瞳の少年。


 空の核紋に何かを喰らった痕がある——そんな能力、聞いたことがない。


 いつか、もう一度聴く機会があるかしら。


 リーナはその旋律を、記憶の奥深くに刻みつけた。

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