第23話 カスカーラへの道
馬車が帝都の東門を出たのは、夜明け前だった。
石畳の振動が車体を揺らし、窓の外を流れる街灯の明かりが次第にまばらになっていく。帝都の城壁が背後に遠ざかり、やがて平原の向こうに朝焼けが広がった。
リーナは馬車の座席に深く腰を下ろし、窓枠に頬杖をついた。向かいの席でルシアンが腕を組み、目を閉じている。
「ルシアン様、眠っていらっしゃるの?」
「……眠っていない」
碧眼が薄く開いた。馬車には二人きり。護衛は別の馬車に分乗している。
「俺が眠ると思うか。お前を乗せた馬車で」
口調が切り替わっていた。帝都を離れた瞬間に、「私」が「俺」になる。リーナはその切り替えの速さに、もう慣れていた。
「カスカーラまでどのくらいですの?」
「馬車で三日。途中、レーヴェンブルクの宿場で一泊する。カスカーラに着いたら、ギルド本部の交易記録をすぐに閲覧できるよう手配してある」
「シュヴァルツベルク家のお名前で?」
「交易路を握っている家だ。ギルドとは持ちつ持たれつの関係がある。記録へのアクセスは問題ない」
リーナは頷いた。窓の外に広がる麦畑が、朝日を受けて金色に波打っている。帝都の喧騒から離れると、空気の質が変わる。冷たく、澄んで、遠い山並みの輪郭が鮮明に見えた。
「ただし」
ルシアンの声が低くなった。
「カスカーラには、ヴァレンシュタイン家の手の者もいる。冒険者ギルドは建前上中立だが、グリフォンハート家がギルドへの資金提供を通じて影響力を持っている。グリフォンハートはヴァレンシュタインの資金で動いている節がある」
「つまり、ギルド本部にもヴァレンシュタインの目がある、と」
「目だけならまだいい。手が伸びている可能性もある。気をつけろ」
リーナは微笑んだ。
「気をつけますわ。でも、怖がってはいませんの」
「知っている。だから面倒だと言っている」
* * *
二日目の午後、馬車が丘陵地帯を越えた頃だった。
窓の外に草原が広がり、遠くで羊の群れが白い点を散らしている。馬車の振動が心地よい揺れに変わり、リーナはうとうとしかけていた。
その時。
音が聴こえた。
鑑譜眼を発動しているわけではない。瞳は紫のままだ。それなのに、頭の奥で何かが鳴っている。
ヴァイオリンの音色。
リーナの指先が、膝の上で無意識に動いた。弓を引くように、弦を押さえるように。
前世の記憶が、波のように押し寄せてきた。
オーケストラのステージ。指揮者が右手を上げる。第一ヴァイオリンが主旋律を奏で、チェロが低音で支え、ビオラが中間を埋める。何十本もの弦が同時に鳴り、リーナ——いや、前世のわたしは、その全てを同時に聴いていた。
オーボエのAの音が、〇・五ヘルツだけ高い。
セカンド・ヴァイオリンの一人が、テンポを半拍遅らせている。
全ての音が、同時に、別々に聴こえる。
記憶が途切れた。
リーナは目を開けた。額に汗が浮いている。心臓が速く打っていた。
「……リーナ」
ルシアンが身を乗り出していた。碧眼に、珍しく焦りの色が浮かんでいる。
「大丈夫か。顔が真っ白だ」
「大丈夫ですわ。少し——前世の記憶が」
「記憶?」
リーナは深く息を吐いた。馬車の揺れが戻ってくる。草原の風が窓から吹き込み、汗ばんだ額を冷やした。
「前世のわたしは、オーケストラで演奏していましたの。何十人もの演奏者が同時に音を出す中で、一つ一つの楽器の音を聴き分けていた」
「……それが、鑑譜眼と関係があるのか」
「ええ。鑑譜眼で人の核紋を視る時、わたしは一人の旋律しか聴けない。一度に一つの楽器しか聴けないのと同じ。でも——」
リーナの紫の瞳が、遠くを見つめた。
「オーケストラでは、何十もの音を同時に聴いていた。主旋律と副旋律と通奏低音を、全部別々に、でも同時に。もし鑑譜眼でそれと同じことができたら——」
馬車が轍を踏み、小さく跳ねた。リーナの銀髪が揺れた。
「複数の人間の嘘を、同時に聴き分けられるかもしれませんわ」
ルシアンは黙って聞いていた。しばらくして、小さく息を吐いた。
「……お前は、どこまで進化するつもりだ」
「さあ。鑑譜眼が教えてくれますわ」
「前世の記憶が鍵だとしたら、無理に思い出そうとするな。記憶が痛みを伴うこともある」
リーナはルシアンを見た。彼の碧眼には、普段の冷徹さとは違う何かが浮かんでいる。
「心配してくださっているの?」
「……馬鹿を言うな。お前が倒れたら、俺の情報源がなくなる」
リーナの耳が、僅かに赤くなった。鑑譜眼を使わなくても、彼の声に嘘がないことはわかる。
「ありがとうございます、ルシアン様。大丈夫ですわ。わたしの前世の記憶は、穏やかなものですの。音楽の記憶ですもの」
ルシアンは何も言わず、窓の外に視線を逸らした。耳の先が、かすかに紅潮しているように見えた。
* * *
三日目の朝。
馬車の窓から、潮の匂いが流れ込んできた。
丘を越えた瞬間、視界が一気に開けた。紺碧の海が水平線まで広がり、その手前に都市がある。
カスカーラ。
迷宮都市と呼ばれるその街は、帝都とはまるで違う姿をしていた。石造りの建物が斜面に段々と積み重なり、色とりどりの屋根が海に向かって流れ落ちている。港には帆船が並び、カモメの声が遠くから聴こえてくる。
そして——街の中央にそびえる、巨大な岩山。
「あれが迷宮の入口ですの?」
「ああ。カスカーラの迷宮——大陸で最も深く、最も危険なダンジョンの一つだ。冒険者ギルドの総本部がこの街にあるのは、あの迷宮を管理するためだ」
リーナは窓から身を乗り出した。潮風が銀髪を巻き上げる。帝都の重い空気から解放されたような、不思議な開放感があった。
「綺麗ですわね」
「綺麗だが油断するな。この街は——帝都よりも嘘が多い」
馬車が街の入口に差しかかった。門番が荷物を確認し、ルシアンの通行証を見て敬礼する。シュヴァルツベルクの名は、この交易都市では帝都以上の重みを持つ。
街路に入ると、喧騒が一気に押し寄せた。革鎧の冒険者たちが大声で話し、露店の商人が値段を叫び、魔導具を売る行商人が怪しげな口上を並べている。
リーナの紫の瞳が、一瞬だけ金色に光った。
街全体から、無数の旋律が聴こえてくる。嘘と真実が入り混じった、雑多で荒々しい和声。帝都の旋律が整った弦楽四重奏だとすれば、カスカーラは——市場で鳴る祭囃子のようだった。
「すごい……帝都とは全然違う音ですわ」
「帝都は嘘に秩序がある。この街の嘘は——野放しだ」
ルシアンの言葉に、リーナは小さく笑った。
カスカーラ。この街の交易記録の中に、二重条約の証拠が眠っている。
複数の人間の嘘を、同時に聴き分けられるかもしれませんわ。
前世の記憶が教えてくれた可能性。それを試す舞台が、目の前に広がっている。




