第22話 条約の裏側
条約文書の束は、リーナの予想よりも厚かった。
シュヴァルツベルク公爵邸の閲覧室。長机の上に広げられた羊皮紙の束からは、古いインクと蝋燭の匂いが立ち上っている。
「帝国と連合王国群の通商条約。正本が三通、副本が七通、覚書が十二通」
ルシアンが書類の概要を説明する。公的な口調。部屋の外には護衛が立っている。
「シュヴァルツベルク家は交易を統べる立場上、条約の経済条項を精査する権限を持つ。鑑譜師を招いての鑑定は、正当な手続きの範囲内だ」
「ありがとうございます、ルシアン様」
リーナは白い手袋を外し、指先で羊皮紙に触れた。
深く息を吸い、意識を集中させる。
紫の瞳が、金色に変わった。
正本の旋律が聴こえてくる。
帝国側外交官の筆跡は堅実で正確だった。インクの下に流れる旋律は安定した和音を奏でている。条約の各条項、関税率から交易品目、通行権、紛争解決手続きに至るまで、嘘の音は聴こえない。
「正本は問題ありません。旋律が安定しています」
「副本は」
「こちらも……同じ調べですわ。正本と副本の旋律が一致している。写しに改竄はありません」
ルシアンが僅かに顎を引いた。本当の嘘は、もっと目立たない場所に潜んでいる。
「では、覚書を」
リーナは覚書の束に手を伸ばした。外交官同士の非公式な合意を文書化したもので、実務上の運用を左右する重要な文書群。
一通目。旋律は清浄。
二通目。同じく問題なし。
三通目——。
リーナの指先が止まった。
「……あら」
金色に光る瞳が細まった。
覚書の文面は、帝国と連合の間で取り交わされた交易品の検査基準に関する補足合意。内容は平凡だ。しかし、インクの下から聴こえてくる旋律に、微かな歪みが混じっている。
不協和音というほど明確ではない。だが、旋律の一部がほんの半音だけずれている。
「この覚書の旋律、少しだけ歪んでいますわ」
「嘘か」
「いいえ、嘘ではありません。書かれていることは事実です。ただ——」
リーナは指先を覚書の末尾に滑らせた。署名欄の上、外交官の花押が記された部分。
「この花押を書いた人間の旋律に、何かが隠されている。嘘をついているのではなく、何かを書かなかったのですわ」
「書かなかった?」
「ええ。旋律には二種類の歪みがありますの。嘘をついた時の不協和音と、真実を隠した時の沈黙の歪み。この覚書は、嘘はついていない。でも、この覚書と対になるもう一つの文書が存在することを、旋律が示唆していますわ」
ルシアンの碧眼が鋭くなった。
「二重条約か」
「断定はできません。ただ、この覚書の裏に、もう一つの合意が存在する可能性が高い」
ルシアンが椅子の背に体を預け、天井を見上げた。碧眼が何かを計算するように細められている。
「シュヴァルツベルク家の交易部門が不自然な資金の流れを検知したのは、その沈黙の歪みが原因か」
「おそらく。帳簿上の数字は正しい。でも数字の裏に流れる旋律が、本来あるべき音とずれている。帳簿を管理する者が気づくのは当然です」
リーナは残りの覚書を一通ずつ精査した。四通目、五通目と、同じ歪みが繰り返されている。まるで、表の条約の影に、もう一つの条約が隠れているかのように。
九通目の覚書に至った時、リーナの瞳が大きく見開かれた。
歪みが、一段と深い。
「ここ」
指先が覚書の第三項を押さえた。連合王国群からの鉱石輸入に関する条項。
「この条項、表面上は連合からの鉱石輸入量を年間五千トンに制限する合意ですわ。でも、旋律の裏に——もう一つの数字が聴こえる。制限量とは別の取引量が、どこかに記録されている」
「裏帳簿か」
「裏帳簿というより、裏条約ですわ。表の条約は連合に公平な条件を見せている。でも、覚書の旋律を辿ると——帝国が連合に見せている顔と、裏で交わしている約束が違う」
リーナは瞳の金色を消し、椅子の背にもたれた。額に薄く汗が浮いている。
ルシアンが黙って水差しから杯に水を注ぎ、リーナの前に置いた。
「……ありがとうございます」
「無理をするな」
リーナは水を一口含み、覚書の束を見つめた。覚書の歪みは、嘘ではなく沈黙だ。書かれなかった真実の影を聴き取るのは、存在しない音を聴くようなものだった。
* * *
夕暮れの閲覧室。蝋燭の灯りが覚書の羊皮紙を照らしている。
十二通の覚書すべてを精査したリーナは、ルシアンに報告した。
「十二通のうち、五通に同じ歪みがありました。歪みのある覚書は全て、鉱石輸入、魔導具取引、国境通行権に関するもの。共通しているのは、帝国が連合の資源にアクセスする条項ですわ」
「つまり、帝国は表の条約で連合に公平な取引条件を提示しながら、裏では資源を不当に引き出す仕組みを作っている」
「その可能性が高いですわね。ただ、覚書の歪みだけでは証拠として弱い。裏条約の実物を見つけなければ、推測の域を出ません」
ルシアンが腕を組んだ。碧眼が蝋燭の炎を映して揺れている。
「覚書の歪みが最も深かった九通目。鉱石輸入の条項だ。あの鉱石は、帝国のどこに運ばれている」
「覚書にはイグナシオンの帝国備蓄庫と記されていますわ。でも旋律が示唆する実際の行き先は——」
リーナは帝国地図を指差した。東の端、海に面した都市。
「カスカーラですわ。冒険者ギルドの総本部がある迷宮都市。覚書の旋律の中に、ギルドの交易印に似た音色が混じっていたのが気になりますの」
ルシアンの表情が引き締まった。
「カスカーラか。シュヴァルツベルク家の交易網が最も強い都市だ。調べられる」
「では」
「ああ。カスカーラの交易記録を洗う。覚書の歪みと突き合わせれば、二重条約の輪郭が見えてくるはずだ」
リーナは頷いた。蝋燭の灯りが、彼女の紫の瞳に小さな炎を映している。
二重条約。
帝国が連合に見せている顔と、裏で交わしている約束が違う。
この嘘を仕掛けたのは誰なのか。旋律を辿れば、答えが聴こえるはずですわ。




