第21話 舞踏会の余波
翌朝の帝都イグナシオンは、嵐の後のように静かだった。
いや——静かに見えるだけだ。水面下では嵐が渦を巻いている。
リーナはクレスタフェルデ伯爵邸の書斎で、朝の紅茶を手にしていた。卓上には十通を超える封書が積み上がっている。昨夜の舞踏会から一夜明けただけで、これだけの手紙が届いた。
「お嬢様、また三通届きました」
侍女のエルザが銀の盆に載せた封書を運んできた。蝋封の紋章を見るだけで、差出人の格がわかる。男爵家、伯爵家、果ては公爵家の分家まで。
「ありがとう、エルザ。積んでおいて」
「はい。……お嬢様、朝食もまだですのに」
「食欲より好奇心の方が強い朝ですの」
リーナは封書を一通ずつ開いていった。内容はどれも似通っている。契約書の真贋鑑定、取引相手の信用調査、婚約者の忠誠確認——。
紫の瞳を細めて、リーナは苦笑した。
「帝都の嘘を暴く令嬢、ですか。大仰な名前をつけてくださるものですわね」
* * *
同じ頃、ヴァレンシュタイン公爵邸の執務室は、重い沈黙に包まれていた。
ディートリヒ・ヴァレンシュタインは執務机の前に立ち、窓の外を睨んでいた。金髪が朝日を受けて光っているが、その表情には一片の輝きもない。
「フローラの件、父上はどう仰せだ」
副官が書類を手に、慎重に言葉を選んだ。
「閣下は……お怒りです。『エーデルシュタインの娘の魔力ランクなど、我が家の知ったことではない。だが火消しが遅れれば同盟に傷がつく』と」
ディートリヒの拳が机を叩いた。音が執務室に響き、副官の肩が跳ねた。
「あの女を切り捨てたい」
低く、抑えた声だった。しかし刃のような苛立ちが滲んでいる。
「フローラ・エーデルシュタインは、ヴァレンシュタイン家にとって重荷だ。模造品、学歴詐称、そして魔力ランクの誇張——三つも嘘を暴かれた女を、なぜ私が庇わねばならない」
「しかし——」
「わかっている」
ディートリヒは歯を食いしばった。
ヴァレンシュタイン家とエーデルシュタイン家の婚姻同盟は、帝国の権力構造の要石だ。軍事を握るヴァレンシュタインと、魔導研究を握るエーデルシュタイン。この二本柱が帝国を支えている。フローラを切り捨てることは、同盟そのものに亀裂を入れることを意味する。
それは、できない。
ディートリヒの脳裏に、昨夜の光景がよぎった。銀白のドレスの女。紫の瞳が金色に光り、大広間の空気を凍らせた瞬間。
あの目。
「……あの女は危険だ」
ディートリヒの声は、自分自身に言い聞かせるように低かった。
「鑑譜眼がある限り、どんな嘘も暴かれる。フローラだけではない。次は——」
次は、ヴァレンシュタイン家の嘘に手が伸びる。
その認識が、ディートリヒの背筋を凍らせた。
* * *
昼過ぎ、リーナは書斎で封書の選別を続けていた。
依頼の中身を読むだけで、社交界の空気の変化が手に取るようにわかる。フローラの魔力ランク暴露は、想像以上の衝撃を与えたらしい。
ある伯爵家の当主からは、嫡男の婚約者の家柄調査。ある商会の代表からは、取引先の契約書の鑑定依頼。報酬として金貨五十枚を提示してきている。
「鑑譜眼一つで、これだけの値がつく」
リーナは封書を置き、自分の手のひらを見つめた。白い指先。前世の記憶が宿る鑑譜眼は、この手のひらよりも遥かに価値のある武器になりつつある。
ただし、武器は使い方を誤れば自分を傷つける。帝都の社交界で名が広まるということは、それだけ敵の目にも留まるということだ。
父のエーリヒが書斎に顔を出した。
「リーナ。依頼は選んでいるか」
「ええ、お父様。報酬の高いものから順に並べていますけれど」
「金額で選ぶな」
父の言葉は、ルシアンとまったく同じだった。リーナは小さく笑った。
「お父様とルシアン様は、時々同じことを仰いますわね」
エーリヒは髭を撫でて苦笑した。
「あの男は信用できる。だが、お前の身の安全が第一だ。ヴァレンシュタイン家が黙っているとは思えん」
「わかっていますわ」
父が去った後、リーナは窓辺に立った。帝都の街並みが午前の光を浴びている。尖塔と石造りの屋根が連なり、その向こうに宮廷の白い壁が見える。
あの宮廷で、昨夜、三つ目の嘘を暴いた。
次に暴くべき嘘は、もっと大きい。
* * *
午後、ルシアンがクレスタフェルデ伯爵邸を訪れた。
黒い外套の裾が風に翻り、書斎に入ってきたルシアンの碧眼が、卓上に積み上がった封書の山を一瞥した。
「盛況だな」
「おかげさまで。昨夜の舞踏会以来、依頼が止まりませんわ」
リーナは紅茶を差し出しながら、封書の一つを指で示した。
「美術品の真贋鑑定、交易契約の不正調査、相続争いの証言鑑定。どれも報酬は悪くありませんの。でも、全部受けていたら身体が保ちませんわ」
「選別するぞ」
ルシアンは外套を脱ぎ、リーナの向かいに腰を下ろした。二人きりの書斎。口調が自然に切り替わる。
「報酬額で選ぶな。依頼の裏にある情報で選べ。鑑譜眼は武器だ。使い方を間違えるな」
「心得ていますわ」
リーナは封書を仕分けながら、一通の手紙で手を止めた。
蝋封の紋章が、見覚えのある意匠だった。帝国外交局の鷲と月桂樹。
「これは」
「開けてみろ」
リーナが封を切ると、丁寧な筆跡の文面が現れた。帝国と連合王国群の条約交渉に関わる書類の真贋鑑定依頼。差出人の名は伏せられているが、シュヴァルツベルク家の情報網を通じた非公式ルート。
リーナの紫の瞳が、微かに光った。
「ルシアン様。これは——」
「ああ」
ルシアンの碧眼が、じっとリーナを見つめた。
「帝国と連合の条約交渉。表向きは平和条約の更新だが、シュヴァルツベルクの交易部門が不自然な資金の流れを検知した。条約の経済条項に何か仕掛けがあるかもしれない」
リーナは手紙を卓上に置いた。紅茶のカップに指を添え、しばし黙考する。
個人の嘘は、すでに何度も暴いてきた。模造品、学歴、魔力ランク。
だが、条約は違う。国家と国家の間に交わされた公文書。そこに嘘があるなら——。
「面白いですわね」
リーナの唇が弧を描いた。
「個人の嘘ではなく、国家の嘘ですわね」
「受けるのか」
「もちろん。わたしの鑑譜眼が最も輝くのは、嘘が大きければ大きいほどですもの」
ルシアンの口元が、ほんの僅かだけ緩んだ。
「面倒な女だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
リーナは手紙を書斎の引き出しに仕舞い、窓の外に目を向けた。帝都の尖塔が午後の光を受けて金色に輝いている。
三つの嘘を暴いた。でも、それは序章にすぎない。
この帝都には、まだわたしの鑑譜眼が聴くべき不協和音が、いくつも眠っている。




