第20話 魔力ランクの不協和音
大広間のシャンデリアが、千の光を放っていた。
水晶の飾りが弦楽の振動を受けて微かに揺れ、天井一面に虹の波紋を散らしている。帝国の紋章旗が壁面を彩り、五大公爵家の旗がそれぞれの柱に掲げられていた。
皇帝レオハルト三世主催の宮廷舞踏会。帝都イグナシオンで最も華やかな夜。
弦楽四重奏が第三楽章を終え、大広間に短い静寂が落ちた。
その沈黙を破るように、入口の侍従が声を上げた。
「シュヴァルツベルク公爵家次男、ルシアン・シュヴァルツベルク殿。ならびに、クレスタフェルデ伯爵家令嬢、リーナ・クレスタフェルデ嬢」
ざわめきが波のように広がった。
リーナは一歩を踏み出した。
銀白のドレスが裾を引く。星を散らしたような銀糸の刺繍が、シャンデリアの光を受けて淡く輝いている。銀色の髪を高く結い上げ、首元には小さな紫水晶のペンダント。背筋を伸ばし、紫の瞳を正面に据えた。
半歩後ろに、ルシアン。漆黒の礼装に銀の釦。碧眼は氷のように冷たく光っている。
「あの令嬢、婚約破棄された……」
「シュヴァルツベルクの次男と?」
「あのドレス、銀白……公爵家の色ではないの」
扇の陰の囁きが、大広間を横切っていく。
リーナは微笑みを浮かべた。あの夜と同じ大広間。同じシャンデリア。だが今夜、泣く理由は何一つない。
* * *
弦楽がワルツを奏で始めた。
ルシアンがリーナに手を差し出した。公的な所作。碧眼に感情は見えない。
「一曲」
「喜んで」
大広間の中央で、二人が踊る。ルシアンのリードは正確だった。手袋越しに伝わる手のひらの温度が、ドレスの布地を通して腰に添えられた指先の重みが、一歩ごとに確かになっていく。
ワルツの旋律が大広間を満たす中、リーナの瞳が一瞬だけ金色に光った。
周囲の核紋が聴こえる。好奇、嫉妬、侮蔑、関心——さまざまな旋律が入り混じる大広間の和声。その中から、リーナは一つの音を探していた。
東側の柱の近く。深紅のドレスの女。
見つけた。
ワルツが終わり、リーナはルシアンの腕から離れた。拍手がまばらに響く中、歓談の時間に移る。
「東側に」
ルシアンが小さく頷いた。
* * *
フローラ・エーデルシュタインは、取り巻きの令嬢たちに囲まれて立っていた。
深紅のドレスに金の帯飾り。栗色の巻き髪を華やかに結い上げ、扇を手に笑っている。隣にはディートリヒ・ヴァレンシュタインが立っていた。金髪の騎士団長は銀の礼装を纏い、形だけは完璧な貴公子の姿をしている。
リーナがフローラの前に歩み出ると、取り巻きたちの会話が止まった。
「まあ。リーナ様」
フローラの唇が弧を描いた。扇の陰で目が笑っていない。
「今夜もお美しいドレスですこと。シュヴァルツベルク家のお下がりかしら?」
取り巻きたちがくすくすと笑った。
「ありがとうございます。フローラ様もお変わりなく華やかですわ」
リーナは穏やかに微笑んだ。一歩も引かない。
「ですけれど——まだ社交界に居場所があるとお思いなの? 婚約を破棄された身で」
フローラの声には棘があった。扇を閉じ、リーナを見下ろすように顎を上げている。
「居場所は自分で作るものですわ、フローラ様」
リーナの紫の瞳が、金色に変わった。
フローラの核紋が聴こえる。
不協和音が鳴り響いた。
これまで聴いた中で、最も大きな不協和音だった。模造品の時よりも、学歴詐称の時よりも、はるかに深く、はるかに歪んだ音。フローラの核紋の根幹を揺さぶるような、構造的な嘘の音。
魔力ランク。
B級と公称されている核紋の出力が、実際にはC級のものでしかないことを、旋律が告げている。B級の和音は本来、もっと厚みがあり、もっと深い。フローラの核紋から聴こえるのは、薄く、浅い、C級の旋律だった。その上に、人工的に被せられたB級の「偽装音」が乗っている。
エーデルシュタイン家の魔導院が施した改竄。魔力測定器の結果を書き換えただけでなく、核紋そのものに薄い増幅処理を施している。だが、鑑譜眼の前では音のごまかしは利かない。
「フローラ様」
リーナの声は穏やかだった。大広間に響くほど大きくはないが、周囲の貴族たちの耳には確実に届く音量。
「あなたの魔力ランクの旋律が、実に面白いですわね」
フローラの笑みが凍った。
「……何ですって?」
「B級の和音にしては、随分と薄い音色ですこと」
リーナは小首を傾げた。あの夜、模造品を暴いた時と同じ仕草。だが今夜の言葉は、あの時よりもはるかに重い。
「核紋の旋律は生まれ持ったもの。ごまかしが利かない領域ですわ。それなのに、フローラ様の旋律にはどこか——不自然な厚みが被さっていますの。まるで、C級の和音の上にB級の衣を着せたような」
大広間が静まった。
弦楽の音だけが遠くで鳴っている。周囲の貴族たちが一斉にフローラを見た。扇が止まり、グラスを持つ手が固まっている。
「でたらめですわ! わたくしはB級です! エーデルシュタイン家の魔導院が正式に鑑定した——」
「エーデルシュタイン家の魔導院が、ですか」
リーナの声に皮肉が混じった。
「ご自身の家の魔導院が鑑定した結果を、ご自身が主張なさる。それは鑑定とは呼びませんの。自画自賛と呼びますのよ」
誰かが息を呑む音が聴こえた。取り巻きの令嬢たちが後ずさる。
フローラの顔が蒼白になった。唇が震えている。言葉が出てこない。扇を握る手の関節が白くなっていた。
「リーナ」
ディートリヒが一歩前に出た。碧眼が怒りに燃えている。だが声は低く抑えられていた。宮廷舞踏会の場で声を荒げるわけにはいかない。
「根拠のない中傷はやめてもらおうか」
「根拠がないかどうかは、第三者の鑑定士にお調べいただければ明らかになりますわ。ディートリヒ様」
リーナの紫の瞳が、ディートリヒを真っ直ぐに見つめた。金色の光がまだ残っている。
「わたしの鑑譜眼は、嘘をつきませんの」
ディートリヒの顔から血の気が引いた。あの目。自分が「気味が悪い」と切り捨てた目が、今、帝都中の貴族の前で自分の婚約者の嘘を暴いている。
大広間のざわめきが、潮のように膨らんでいった。
「魔力ランクの詐称ですって……」
「エーデルシュタイン家が、自家の魔導院で改竄を?」
「鑑譜師のリーナ嬢が言うのなら……」
「B級ではなくC級? あのフローラが?」
フローラが口を開いた。何かを言おうとした。だが声にならなかった。喉が詰まったように、唇だけが動いている。
取り巻きの令嬢たちは、もう誰もフローラの隣にいなかった。
* * *
リーナが踵を返した。
背中に、大広間のざわめきが追いかけてくる。扇の陰の囁き、驚嘆、嘲笑、畏怖——さまざまな旋律が渦を巻いている。
ルシアンが半歩前に出て、リーナの背に手を添えた。手袋越しの手のひらが、肩甲骨の間に触れている。導くように、守るように。
「退場する」
短い一言。公的な声だったが、背中に添えられた手の温度は、どこまでも確かだった。
二人は西側の回廊へ向かった。大広間の扉が閉まる瞬間、リーナは背後を振り返った。
シャンデリアの光の中で、フローラが立ち尽くしていた。深紅のドレスが、蒼白な顔と対照をなしている。その隣で、ディートリヒが拳を握ったまま動けずにいた。
扉が閉じた。
回廊の静寂が、二人を包んだ。月明かりが石畳に差し込み、リーナの銀白のドレスを青白く照らしている。
「よくやった」
ルシアンの口調が切り替わった。回廊には二人しかいない。
「三つの嘘を暴きましたわ」
リーナは回廊の窓から、夜空を見上げた。星が鮮明に光っている。
「ドレスの出自、学歴、そして魔力ランク」
「ああ」
「でも、フローラの嘘は序章にすぎませんわ」
リーナの紫の瞳が、星明かりを映して光った。鑑譜眼の金色ではない。静かな決意の光。
「この帝国には、もっと大きな嘘が眠っている。ヴァレンシュタイン家の核紋に刻まれた嘘が——フローラの比ではない不協和音が」
ルシアンが黙って頷いた。背中に添えられていた手が、いつの間にかリーナの手に移っていた。手袋越しに、指先が重なっている。
リーナは手を引かなかった。
夜風が回廊を抜けていく。大広間から弦楽の音が微かに漏れ聞こえてくる。嘘と虚飾の舞踏会は、まだ続いている。だがリーナはもう、あの場所には戻らない。
三つの嘘を暴きましたわ。
でもフローラの嘘は序章にすぎない。この帝国には、もっと大きな嘘が眠っている。




