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婚約破棄された令嬢ですが、偽聖女の嘘まで聞こえます  作者: 景都 (けいと)


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第19話 嵐の前の静寂

伯爵邸の訓練室は、もともと剣術の稽古に使われていた広い部屋だった。


 今は椅子が十脚ほど並べられ、使用人たちが行儀よく座っている。リーナの鑑譜眼の制御訓練のために、ルシアンが手配した協力者たちだ。


「では、始めますわ」


 リーナは部屋の中央に立ち、目を閉じた。


 十人の核紋が、それぞれ異なる旋律を奏でている。訓練室の空気が音で満たされる。木管の低い音、金属的な高い音、草原のような穏やかな音——十の旋律が重なり合い、複雑な和声を作っている。


 リーナの瞳が金色に開いた。


 全員を同時に聴くのではない。大勢の中から特定の一人だけを聴く。オーケストラの合奏の中から、第一ヴァイオリンのパートだけを抜き出すように。


 三番目の席。赤い髪の侍女。


 リーナは意識を集中させた。他の九つの旋律が背景に沈み、一つの核紋だけが浮かび上がる。


 澄んだ和音。嘘はない。


 次。七番目の席。壮年の従者。


 切り替えに一呼吸。旋律のピントが合う。この従者の核紋には微かな歪みがある——昨日の仕事で小さな嘘をついた痕跡だろう。些細なもの。


「七番目の方。昨日、何か小さな嘘をおつきになりましたわね」


 従者が目を丸くした。


「は、はい。厨房の皿を一枚割ったのを黙っておりました……」


 使用人たちからくすくすと笑いが漏れた。リーナも微笑む。


「もう大丈夫ですわ。ご協力ありがとうございました」


 使用人たちが退室した後、リーナは椅子に座り、こめかみを押さえた。十人を一人ずつ聴き分ける作業は、思った以上に消耗する。


 舞踏会の大広間には、何百人もの貴族がいる。その中からフローラだけを正確に聴き分けなければならない。


 リーナは目を閉じ、前世の記憶を辿った。


 オーケストラ。八十人の奏者が同時に音を出す中で、指揮者の棒に合わせて自分のパートだけを正確に弾く。周囲の音に溺れず、かといって無視もせず、共鳴しながら自分の音を保つ。


 鑑譜眼も同じだ。大広間の和声に溺れてはいけない。フローラの核紋だけを、一本のソロパートとして聴き出す。


 もう一度。三番目の席に意識を向ける。今度は切り替えを半呼吸で。


 成功した。


 こめかみの痛みが増したが、リーナは唇の端を上げた。明日は、これを実戦でやる。


* * *


「無理はするな」


 声に振り向くと、父エーリヒが訓練室の扉に立っていた。


 灰色の髪に、穏やかな碧眼。クレスタフェルデ伯爵家の当主として宮廷を渡り歩いてきた男だが、娘の前では一人の父に戻る。


「お父様。見ていらしたんですか」


「少しだけな。十人を聴き分けるとは、大した腕前だ」


 エーリヒが隣の椅子に座った。リーナとは違う、広い背中。


「明日の舞踏会のことだが」


「ええ」


「フローラの件は、ルシアン殿から聞いている。魔力ランクの不正を暴くと」


「はい」


「リーナ」


 父の声が、少しだけ低くなった。


「お前の判断を信じている。だが、無理だけはするな。帰りたくなったら帰ってこい。この家は、いつでもお前の味方だ」


 リーナの瞳が自然と金色に光った。


 父の核紋が聴こえる。


 温かい和音。その中に、娘への深い愛情と、ヴァレンシュタイン家への静かな怒りが織り交ぜられている。二つの感情が不協和音にならず、一つの旋律として調和している。嘘のない音。


 胸の奥がじんと熱くなった。


「ありがとうございます、お父様」


 リーナは鑑譜眼を切った。父の前では、能力ではなく娘として微笑みたかった。


「心配をおかけしますけれど、大丈夫ですわ。わたしの鑑譜眼は、もうあの夜のように揺れたりしませんの」


 エーリヒが娘の銀色の髪をぎこちなく撫でた。不器用な手つき。リーナは目を細めた。


 父が去った後、リーナは窓辺に立った。


 帝都の夜景が広がっている。無数の灯りが星のように瞬き、その向こうに宮廷の尖塔が黒い影を落としている。明日、あの場所に立つ。


 半年前の記憶が蘇る。大広間の中央で、ディートリヒが冷たく言い放った声。「お前の目が気味悪い」。取り巻きたちの含み笑い。泣きながら回廊を歩いた足音。


 あの夜の自分は、嘘を聴き分ける力を持ちながら、自分自身の涙の音しか聴こえていなかった。


 今は違う。


 リーナは窓から背を向けた。明日のために、休息を取らなければ。


* * *


 深夜。伯爵邸の書斎。


 蝋燭の灯りの中で、リーナとルシアンが机を挟んで座っていた。使用人は下がらせてある。二人きりだ。


「舞踏会の入場は第三楽章の後。主賓が出揃った後に、我々が入る」


 ルシアンの声は公的な口調だった。帝都の地図と、大広間の見取り図を広げて戦略を語っている。


「フローラの位置は大広間の東側。ディートリヒと並んでいるだろう。接触のタイミングは第五楽章——ワルツの後の歓談の時間帯が最適だ」


「ディートリヒの反応も考慮する必要がありますわね。騎士団長として暴力的な行動に出る可能性は」


「ない。公式の舞踏会で手を上げれば、ヴァレンシュタイン家の面目が潰れる。あの男はプライドの塊だ。公の場では動けない」


「なるほど」


 リーナは見取り図に目を落とした。大広間。シャンデリア。弦楽四重奏。あの夜と同じ空間。だが、今は隣にルシアンがいる。


「退路は西側の回廊。暴露後にフローラ側が騒ぎ立てた場合、こちらから退場する形にする。追い詰めた側が場を離れれば、余韻が残る」


「わかりましたわ」


 ルシアンが見取り図を畳んだ。蝋燭の灯りが二人の顔を照らしている。


 沈黙が落ちた。


 ルシアンが周囲を見回した。書斎の扉は閉じている。窓の外は闇。使用人の気配もない。


 口調が変わった。


「リーナ」


「はい」


「明日——何があっても、俺がそばにいる」


 声が低くなっていた。碧眼が蝋燭の炎を映して揺れている。公爵家の次男の顔ではない。ぶっきらぼうで不器用な、一人の男の顔だった。


 リーナは目を伏せた。指先が、机の上の見取り図の端に触れている。


「……ありがとうございます」


 それだけしか言えなかった。頬に熱が上がってくるのを、俯くことで隠した。


 ルシアンは何も言わなかった。椅子から立ち上がり、外套を羽織った。


「明日。迎えに来る」


 扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかっていく。


 リーナは書斎に一人残された。蝋燭の炎が揺れ、見取り図の上に影が踊っている。


 ルシアンの声が、まだ耳の奥に残っていた。「何があっても、俺がそばにいる」。あの旋律には嘘がなかった。鑑譜眼を使わなくてもわかる。声の温度で、わかる。


 リーナは見取り図を丁寧に畳み、引き出しにしまった。


 窓の外に、三日月が懸かっている。明日の舞踏会までの最後の夜。静かな夜だった。嵐の前の、最後の静寂。


 明日、フローラの魔力ランクの嘘を暴く。


 あの不協和音は、この帝都の誰にでも聴かせる価値がありますわ。

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