第18話 舞踏会への招待
銀の封蝋が施された招待状は、朝の光の中で静かに輝いていた。
クレスタフェルデ伯爵邸の朝食室。窓から差し込む陽光が白いテーブルクロスの上に四角い光を落としている。リーナは招待状を手に取り、文面を読んだ。
『皇帝レオハルト三世主催 宮廷舞踏会へのご招待——』
「宮廷舞踏会ですか」
向かいの席で父エーリヒが紅茶のカップを置いた。穏やかな表情だが、娘を見る目には心配の色が混じっている。
「ルシアン殿のパートナーとして出席するのだな」
「はい。シュヴァルツベルク家の名代として、ですわ」
「……あの場所に、もう一度立つことになるとはな」
あの場所。婚約を破棄された場所。
リーナの指先が招待状の縁をなぞった。銀の封蝋に、皇帝家の紋章が刻まれている。あの夜、同じ紋章の下で、ディートリヒの声を聴いた。「お前の目が気味悪い」。
記憶の中の不協和音が、冷たい風のように耳を掠める。
「わたしは大丈夫ですわ、お父様」
リーナは微笑んだ。指先の震えはなかった。
エーリヒが招待状を手に取り、表裏を確かめた。
「シュヴァルツベルク公爵家を通じた招待か。正面からの堂々とした手順だ。ルシアン殿は信頼できる男だな」
「お父様がそうおっしゃるのは珍しいですわね」
「あの男の目を見ればわかる。嘘をつくには不器用すぎる目だ」
リーナは小さく笑った。鑑譜眼がなくても、父にはわかるらしい。
「お父様も、舞踏会にはいらっしゃるのですか」
「伯爵家として出席する義務がある。だが、リーナ。私はお前の護衛ではない。お前にはお前の戦場がある。私は私の場所にいる」
父の言葉は厳しいようでいて、温かかった。娘を一人の人間として認めている声。
* * *
午後。伯爵邸の応接間に、大きな白い箱が届いた。
使用人が運び入れた箱を開けると、銀白のドレスが薄紙に包まれて横たわっていた。絹の光沢が窓の光を受けて真珠のように輝いている。胸元から裾にかけて、銀糸の刺繍が星のように散っていた。
添えられた手紙は短かった。
『シュヴァルツベルク家の名で出るなら、相応のものを纏え。——ルシアン』
リーナはドレスを手に取った。指先に触れる絹の感触が滑らかで、体温を奪うほど冷たい。だが、手紙の文字はどこかぶっきらぼうで、温かみがあった。
「リーナ様。ルシアン様がお見えです」
使用人が告げた。
ルシアンが応接間に入ってきた。黒の外套。碧眼がリーナの手元のドレスを一瞥した。
「届いたか」
「ええ。立派なドレスですわ。お心遣いに感謝いたします」
「心遣いではない。公爵家のパートナーとして見劣りしないための実務だ」
ルシアンの声は素っ気なかった。だがリーナの耳には、その旋律に微かな揺らぎが聴こえていた。鑑譜眼を使うまでもない。声の調子が、ほんの少しだけ上ずっている。
「……似合う」
その一言は、ほとんど呟きだった。ルシアンの碧眼がリーナから逸れ、窓の外を見た。頬に差した赤みは、逆光のせいだけではないだろう。
リーナの耳が熱くなった。ドレスを胸元に押し当てるようにして、視線を逸らす。
「お世辞の旋律は聴こえませんでしたわね」
「お世辞など言った覚えはない」
ルシアンが窓際に移動した。碧眼が庭園を見ている。口調はまだ公的なものだったが、声の端に柔らかさが滲んでいた。
「舞踏会の件だ。本題に入る」
「ええ」
リーナはドレスをソファに置き、ルシアンの向かいに座った。
「フローラの魔力ランクの件。B級を公称しているが、実際はC級——これを暴くのが今回の目的だ」
「証拠はどの程度集まっていますの?」
「魔導院の鑑定記録を照合した。フローラの入学時の魔力測定ではC級。しかし卒業時の記録がB級に書き換えられている。エーデルシュタイン家の魔導院だからこそできる改竄だ」
リーナは頷いた。
「鑑譜眼でフローラの核紋を直接視れば、魔力ランクの旋律がC級のものか、B級のものか、聴き分けられますわ。不協和音として」
「大勢の前で暴露する。社交界での影響力を一気に削ぐ」
「ただし、わたしが大声で糾弾する必要はありませんの。丁寧に、静かに、事実を述べるだけ。嘘は自分の重みで崩れますわ」
ルシアンの碧眼がリーナを見た。
「……お前のやり方は、いつも静かだな」
「剣を振るうのはあなたのお仕事ですもの。わたしは音を聴くだけですわ」
「一つ懸念がある。フローラの背後にはエーデルシュタイン公爵家がいる。魔力ランクの詐称が暴かれれば、公爵家の面子に傷がつく。反撃は激しくなるだろう」
「覚悟の上ですわ」
リーナはルシアンの目を見た。
「フローラの嘘を放置すれば、エーデルシュタイン家の改竄は宮廷の常態になります。魔導院の鑑定が信用できないとなれば、魔力ランクに基づく帝国の制度そのものが揺らぐ。個人の問題ではありませんの」
ルシアンが小さく息を吐いた。
「政治的に考えるようになったな」
「あなたのお父上に教わりましたもの。真実を暴くことと、真実を示すタイミングは別だと」
窓の外で小鳥が鳴いた。午後の光が応接間を金色に染めている。
* * *
ルシアンが帰った後、リーナは使用人に頼んでドレスの仮合わせをした。
銀白の絹が肌に触れる。侍女のマルタが背中のリボンを結びながら、感嘆の声を上げた。
「リーナ様、まるで星を纏っていらっしゃるよう」
「大げさですわ、マルタ」
「大げさではございませんよ。この銀糸の刺繍、シュヴァルツベルク家のお抱え仕立屋の仕事でしょう。一着でクレスタフェルデ伯爵家の年収の半分はしますわ」
リーナは思わず背筋を正した。そこまでの品なのか。ルシアンは「実務だ」と言い切ったが、実務にしては手の込んだ選び方だ。
「裾の長さも、身頃の幅も、ぴったりですもの。採寸をお伝えになったのですか」
「いいえ。わたしからは何も」
マルタが意味ありげに微笑んだ。リーナの耳がまた熱くなった。
* * *
夜。リーナは自室の鏡の前に立っていた。
銀白のドレスを当ててみる。鏡の中の自分は、半年前とは違う顔をしていた。あの夜、婚約を破棄されて涙を流した少女は、もうここにはいない。
紫の瞳が、鏡の中からこちらを見つめている。
宮廷舞踏会。ディートリヒもフローラもいる。あの夜と同じ大広間。同じシャンデリア。同じ弦楽の調べ。
だが、隣に立つ人が変わった。そして自分自身も、あの頃とは違う。
リーナは鏡から目を離し、ドレスを丁寧に畳んで衣装箱にしまった。
あの夜、婚約を破棄された場所に、わたしは自分の足で戻る。
今度は、泣かない。




