第17話 ディートリヒの焦燥
帝国騎士団本部の執務室は、炎属性の魔導灯で照らされていた。
壁にはヴァレンシュタイン家の紋章が大きく掲げられている。赤い獅子が金の盾を構える意匠。机の上には未処理の書類が積み重なり、インク壺の蓋が開いたまま放置されていた。
ディートリヒ・ヴァレンシュタインは、机の前に立つ部下を睨みつけた。
「もう一度言え」
「は。北部辺境の魔導具補給契約について、ヴェーバー商会側が条件の変更を求めております」
「変更? 私が承認した契約を、商人風情が覆すと?」
部下が一歩引いた。ディートリヒの碧眼が怒りに燃えている。
「団長閣下。ヴェーバー商会の代表が申しますには、納品数量の見直しと、支払い条件の延長を」
「応じる理由がない。突っぱねろ」
「しかし、先方の見積もりには正当な根拠が……」
「根拠だと?」
ディートリヒは書類を手に取った。数字の羅列を目で追う。見積もりの行間に何かが隠されている気配がする。だが、何が正しくて何が嘘なのか、判別がつかない。
以前なら。
以前なら、隣に立っている女がいた。
書類に紫の瞳を向けるだけで、「三箇所ほど不協和音が聞こえますの」と淡々と指摘する女が。
ディートリヒは唇を噛んだ。
「……条件を呑め」
「は?」
「聞こえなかったか。ヴェーバー商会の条件を呑む。ただし次回以降の契約更新時に巻き返す。以上だ」
部下が敬礼して退室した後、ディートリヒは椅子に身を投げた。
革張りの背もたれが軋む。天井を仰ぐと、紋章の赤い獅子が見下ろしていた。
不利な条件を呑んだ。何が隠されているのかわからないまま。
拳を握った。爪が掌に食い込む。
窓の外では、騎士団の兵士たちが訓練場で槍を振るっている。規則正しい掛け声。あの程度の仕事なら、誰にでもこなせる。だが交渉の場で相手の裏を読む仕事は別だ。
ディートリヒは引き出しから過去の契約書を取り出した。半年前、まだ婚約が続いていた頃の書類。欄外に細い字で書き込みがある。「第三条、供給数量に不自然な端数。要確認」。あの伯爵令嬢の字だった。
丸みを帯びた、几帳面な筆跡。当時はうるさいと思っていた。「こんな細かいことまで」と苛立ちすら覚えた。
今、その書き込みの価値がわかる。
ディートリヒは書類を引き出しに押し戻し、乱暴に閉じた。
* * *
夕刻。ヴァレンシュタイン公爵邸の応接間。
フローラ・エーデルシュタインが紅茶のカップを手に、向かいのソファに座っていた。栗色の巻き髪が肩にかかり、薄桃色のドレスの胸元に小さなブローチが光っている。
「今日も騎士団のお仕事でお疲れでしょう、ディートリヒ様」
フローラの声は甘かった。だが、社交の場で何度も聞いた定型の甘さだ。
「フローラ。ヴェーバー商会の契約について、お前の家の魔導院から何か情報は入っていないか」
「魔導具の補給契約? そのようなことはわたくしの管轄ではございませんわ。ディートリヒ様がお得意の分野でしょう?」
「得意の分野で、嘘を見抜けずに不利な条件を呑んだと言っているんだ!」
声が大きくなっていた。フローラのカップが揺れ、紅茶の水面が震えた。
「わたくしを責めるのはお門違いですわ」
フローラの声が冷えた。甲高い笑い声は消え、計算高い目がディートリヒを真っ直ぐに見据えている。
「嘘を見抜く仕事はわたくしの役割ではございません。それをなさっていたのは——以前の婚約者でしょう?」
空気が凍った。
ディートリヒの拳がソファの肘掛けを叩いた。音が応接間に響く。フローラは瞬きひとつしなかった。
「あの女の名前を出すな」
「名前は出しておりませんわ」
フローラが紅茶を一口含んだ。その仕草に動揺の欠片もない。
沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが聴こえている。
フローラが紅茶のカップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う澄んだ音。
「ディートリヒ様。わたくしはエーデルシュタイン家の長女として、あなたのお力になるためにここにおりますの。けれど、嘘を見破る目の代わりにはなれませんわ。それは、最初からお約束していないことですもの」
正論だった。反論の余地がない。だからこそ、ディートリヒの奥歯が軋んだ。
「……わかっている。もういい」
フローラは優雅に立ち上がり、ドレスの裾を整えた。扉に向かいながら、肩越しに振り返る。
「社交界では、あの鑑譜師の令嬢がずいぶん話題ですわよ。ご存じ?」
ディートリヒは答えなかった。フローラの足音が廊下に消えた。
* * *
フローラが帰った後、ディートリヒは執務室に戻った。
机の引き出しから、一通の報告書を取り出す。部下がまとめた帝都の社交界の動向。
その三枚目に、あの名前があった。
『——クレスタフェルデ伯爵令嬢リーナ嬢。シュヴァルツベルク家の後ろ盾を得て社交界に復帰。「鑑譜師」の異名で呼ばれ、複数の貴族から真贋鑑定の依頼を受けている模様。特筆すべきは、フローラ・エーデルシュタイン嬢のネックレスの模造品を暴いた件、および魔導院の成績詐称を指摘した件で、社交界の話題を集めていること——』
ディートリヒは報告書を机に叩きつけた。
鑑譜師。
あの不気味な目が、今や「能力」として評価されている。自分が「気味が悪い」と切り捨てたものが。
歯を食いしばった。奥歯が軋む音が、自分の耳にだけ聴こえた。
「団長閣下」
扉が叩かれた。部下の声だ。
「何だ」
「北部駐屯地のクロイツ隊長から書状が届いております。『至急』の封印つきです」
ディートリヒは封を切った。中身を読み進めるにつれ、眉間の皺が深くなる。
クロイツ隊長。騎士団の中でも実直な男として知られている。その男からの書状に、不穏な一文があった。
『——近年のヴァレンシュタイン家主導の人事に、現場の不満が高まっております。能力より家門を優先する配置は、前線の士気に影響を及ぼしかねません——』
ディートリヒは書状を折り畳み、引き出しにしまった。
クロイツ。北部辺境で十年以上前線を守ってきた叩き上げの騎士だ。家門よりも実力を重んじる男。ヴァレンシュタイン家の方針に正面から異議を唱える胆力がある。
味方にも敵にもなりうる男だった。
身内からの不信。騎士団の内部に、ヴァレンシュタイン家のやり方を疑問視する者がいる。
窓の外は暗くなっていた。魔導灯の炎が、壁の紋章を赤く揺らしている。
あの女を切ったのは正しい判断だった。
あの目は危険だ。自分の嘘を——いや、嘘ではない。正当な判断を、歪めて見せる目だ。
なのに。
ディートリヒは机に両手をついた。
なのに、なぜ手元が狂い始めている?




