第16話 宮廷の暗流
シュヴァルツベルク公爵邸の書斎は、重い黒檀の書棚で四方を囲まれていた。
蝋燭の灯りが羊皮紙の束を照らしている。インクの匂いと古い書物の匂いが混じり合い、空気そのものに重みがあった。
リーナは長机の向こう側に座る壮年の男を見つめた。
シュヴァルツベルク公爵、グスタフ・シュヴァルツベルク。ルシアンの父にして、帝国の財務を束ねる五大公爵家の当主。銀が混じった黒髪を後ろに撫でつけ、碧眼はルシアンと同じ深い色をしている。だがその瞳に宿る光は、息子よりもはるかに冷たかった。
「なるほど。闇オークションの資金がヴァレンシュタインに流れている、と」
公爵の声には感情がなかった。書類を一枚一枚めくりながら、報告を聞いている。
「はい。父上。裏帳簿の写しと、資金の流れを示す証拠をまとめました」
ルシアンが書類の束を差し出した。公的な場での口調。一人称は「私」。背筋は真っ直ぐで、声に余計な抑揚がない。
公爵が書類に目を通す間、リーナは鑑譜眼を細く開いた。
瞳が金色に光る。
公爵の核紋から流れる旋律は、低く重い和音だった。ルシアンの闇属性に似た深さがあるが、その上に幾層もの計算が積み重なっている。政治家の旋律。だが、嘘の音は混じっていない。報告を真剣に受け止めている。
「リーナ嬢」
名を呼ばれ、リーナは鑑譜眼を切った。
「この書類の内容は、お前の鑑譜眼で確認済みか」
「ええ。資金の流れを示す帳簿に不協和音はございませんでした。数字は正確ですわ」
公爵が顎に手を当てた。沈黙が書斎に落ちる。蝋燭の炎が揺れた。
「五大公爵家同士の対立は、帝国の安定を揺るがす。ヴァレンシュタインを正面から糾弾すれば、宮廷は二つに割れる」
「承知しています」
ルシアンの声が硬い。
「だが、このまま放置すれば裏資金はさらに膨れ上がります。闇市への魔導素材の流出も止まらない」
「急ぐな」
公爵の一言は静かだったが、書斎の空気を一変させた。
「皇帝陛下のお耳に入れるにしても、段階を踏む必要がある。まずは宮廷内の力学を読め。誰が味方で、誰が敵か」
リーナは黙って聞いていた。五大公爵家の当主の判断は、個人の正義では動かない。帝国の均衡という、途方もなく大きな天秤の上で動いている。
「リーナ嬢」
公爵の碧眼がリーナに向いた。
「お前の鑑譜眼は有用だ。だが、使い方を誤れば刃になる。宮廷では、真実を暴くことと、真実を示すタイミングは全く別の問題だ」
「心得ておりますわ」
「いや。お前はまだわかっていない」
公爵の声に、初めて感情らしきものが混じった。
「ヴァレンシュタイン家は帝国騎士団を握っている。証拠を突きつけるだけでは足りない。帝国議会と皇帝陛下の後ろ盾を得た上でなければ、潰されるのはこちらだ」
リーナの背筋に冷たいものが走った。鑑譜眼で嘘を暴くことには自信がある。だが、暴いた後の政治的な衝撃波まで計算する力は、まだ自分にはない。
「お前たち二人には、まず宮廷内の味方を増やしてもらう。皇帝陛下の側近に接触し、反ヴァレンシュタインの意思があるかどうかを探れ」
公爵が立ち上がった。面会は終わりだった。
* * *
翌日の午後。リーナはルシアンに伴われ、宮廷の一角にある私室を訪ねた。
皇帝レオハルト三世の側近、ハインツ・グラーフ卿。五十代の痩せた男で、灰色の目が絶えず周囲を窺っている。公爵を通じた非公式の面会だった。
「シュヴァルツベルク家のご子息と、鑑譜師のリーナ嬢でしたか。お噂はかねがね」
グラーフ卿の声は穏やかだったが、指先がかすかに震えていた。
「お忙しいところ恐れ入りますわ、グラーフ卿。今日は少しお話を伺いたいことがございまして」
「何なりと」
グラーフ卿が茶を勧めた。リーナはカップを受け取りながら、男の仕草を観察した。椅子に深く座っているが、背中が壁に触れている。無意識に背後を守る姿勢。扉の方角をちらりと見る癖。誰かに見られているのではないかという不安が、身体に染みついている。
リーナは瞳を金色に切り替えた。
グラーフ卿の核紋が聴こえる。忠誠の旋律は澄んでいた。皇帝への忠義に嘘はない。だが、その旋律の底に別の音が潜んでいる。低く、震えるような不協和音。
萎縮。身を縮めるような、怯えた旋律。
誰かを恐れている。
「グラーフ卿。帝都の闇取引について、宮廷ではどのような認識をお持ちですか」
「闇取引? ああ、噂程度でしたら。しかし宮廷が直接関与するような話は——」
不協和音が増えた。嘘ではない。だが、全てを語っていない。知っていて口をつぐんでいる部分がある。
「あら。旋律がほんの少し揺れましたわ」
リーナが微笑むと、グラーフ卿の顔から血の気が引いた。
「わ、私は何も隠してなど」
「隠しているとは申しておりませんわ。ただ、旋律がお疲れのようだと思いまして」
ルシアンが口を開いた。
「グラーフ卿。我々は貴殿の敵ではない。シュヴァルツベルク家は帝国の安定を望んでいる。皇帝陛下もまた同じだろう」
グラーフ卿は椅子の肘掛けを握った。指の関節が白くなっている。
「……ヴァレンシュタイン家のことは、陛下も気にかけておいでです。しかし、証拠もなしに五大公爵家の一角を追及することは——」
「証拠は揃いつつありますわ」
リーナは穏やかに言った。
「必要なのは、宮廷の中に真実を聴く耳があるかどうかですの」
グラーフ卿の視線が、一瞬だけ窓の外に向いた。宮廷の中庭で、ヴァレンシュタイン家の紋章を付けた騎士が巡回している。グラーフ卿の喉仏が上下した。
「……お力添えできることがあれば、微力ながら」
その旋律に、嘘はなかった。ただ、怯えの不協和音は消えていなかった。
「グラーフ卿。一つだけお聞きしますわ」
リーナは穏やかに問うた。
「宮廷の中で、ヴァレンシュタイン家のやり方に疑問を持っている方は、あなただけですか」
グラーフ卿は口を閉ざした。だが、その核紋が一瞬だけ揺れた。否定の旋律ではない。名前を出せないが、他にもいると語る沈黙だった。
リーナはそれ以上問わなかった。今日得たものは十分だ。
* * *
宮廷を出ると、冬の夕暮れが石畳を赤く染めていた。
「どうだった」
ルシアンの口調が切り替わった。周囲に人の気配がないことを確認したのだろう。
「忠誠は本物ですわ。皇帝陛下への想いに嘘はない」
リーナは外套の襟を合わせた。冷たい風が銀色の髪を揺らす。
「けれど、ヴァレンシュタインの名が出た瞬間、旋律が震えていました。忠義があっても、怯えが上回れば口は閉ざされますわ」
「皇帝の側近ですら、か」
「ええ」
リーナは帝都の屋根が連なる景色を見渡した。尖塔の先に皇帝旗がはためいている。この帝都を動かしているのは、皇帝の権威だけではない。五大公爵家の均衡と、その裏に張り巡らされた思惑の糸。
ルシアンが半歩近づいた。
「お前の鑑譜眼がなければ、グラーフの本心はわからなかった」
「わたしの鑑譜眼だけでは、帝国は動きませんわ。政治を動かすのは、あなたの力ですもの」
ルシアンの碧眼が一瞬だけ揺れた。だがすぐに、前を向いた。
「帰るぞ。日が暮れる」
二人は石畳の道を歩き出した。夕焼けが二つの影を長く伸ばしている。
リーナの脳裏に、グラーフ卿の震える旋律が残っていた。
皇帝陛下の側近ですら、ヴァレンシュタインの名に旋律が震えていましたわ。
この帝国の嘘は、わたしが思っていたより遥かに根が深い。




